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源氏滅亡の舞台で知られる伊豆修善寺 源氏ゆかりの地をめぐる歴史旅

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    都心から電車に揺られること約2時間半。のどかな風景を楽しみながら着いた先は、静岡県伊豆の修善寺です。

    この地は、鎌倉時代に源氏が滅びる舞台となっていたことをご存知でしたか?
    修善寺は源頼朝の弟である源範頼と、息子の鎌倉二代目将軍源頼家が幽閉され、最期を迎えた地であります。そんな源氏ゆかりの地をご紹介します。

     

     

     

    今なお残る頼家への想い 修善寺の歴史の重みを感じる「指月殿」

     

     

     

     

    <01_izu:落ち着いた雰囲気の参道>

     

     

     

     

    修善寺からバスに乗車し、「修善寺温泉」で下車して歩くこと約5分。

    虎渓橋(こけいばし)を渡りお店が連なる通りを抜けて歩いていると、人が集まる温泉街の雰囲気とはまた異なった、静寂な空気に包まれた通りがあります。

    「源頼家公廟道」と刻まれた石柱が建っており、石畳の短い坂道が続きます。

     

     

     
    <02_izu:風情ある路地>

     

     

     
    石積みに苔を生やしたこの通りは、どこか物静かで落ち着いた印象を受けます。

    少し古びた雰囲気もまた風情があります。形や大きさが異なる、丸みを帯びた石積みが趣ある雰囲気を醸し出しています。

     

     

     
    <03_izu:路地の石積み>

     

     

     

     

    道沿いに進み突き当りを左へ曲がると、階段の先には風格ある佇まいの建築が見えます。

     

     

     

     
    <04_izu:階段の先に佇む指月殿>

     

     

     
    こちらは「指月殿」といい、鎌倉時代初期の建築物で、伊豆最古の木造建築とされています。

     

     

     
    <05_izu:指月殿の奥に置かれている釈迦如来坐像>

     

     

     
    お堂の中に置かれ存在感を放っているのが、「釈迦如来坐像」です。鎌倉時代の作とされ、静岡県指定文化財となっています。

    持ち物は無いはずの釈迦像が右手に蓮の花を持っているのが特徴で、とても珍しい坐像です。

    この指月殿も源氏ゆかりの地として知られています。修善寺で死を遂げた鎌倉幕府将軍二代目源頼家の冥福を祈り、母の北条政子が建立したものだと言われています。

    享年23歳という短すぎる生涯を閉じることとなった頼家の気の毒な一生を憐れみ、実の母でありながら自らの子を追い込むことになった北条政子の複雑な心境が形になって、今もなおこの地に残り続けています。

     

     

     

     

    修善寺にひっそり佇む頼家の墓 100年の歳月を経て家臣と共に眠る

     

     

     

     

    指月殿の横には、頼家の墓がどこか寂し気にひっそりと佇んでいます。

     

     

     

     
    <06_izu:ひっそりと佇む頼家の墓>

     

     

     

     

     

    頼家は、父頼朝の後を受け家督を継ぎ、征夷大将軍として鎌倉幕府の二代将軍として実権を握るはずでした。

    ところが、家督を継いでからというもの、北条氏を中心とした豪族を掌握することができず、病に伏せるようになると、家督問題も生じ、この修善寺の地に幽閉されてしまいました。

    しだいに北条氏と関係を断つこととなった頼家は、比企氏とともに復権を試みるもそれも叶わず、幽閉されていた「修禅寺」の門前にあった「箱湯」というところで入浴中に暗殺され、生涯を閉じることとなりました。

    父の頼朝、弟の実朝が眠る鎌倉からは遠く離れたこの地で、そして温泉街から少し離れた人通りが少ないこの地で、頼家が静かに眠っていると思うと、胸が痛みます。

     

     

     

     
    <07_izu:頼家の家臣が眠る十三士の墓>

     

     

     
    そんな頼家のもとにかつての家臣たちがやって来ました。

    鎌倉時代史書の「吾妻鏡」によると、頼家が暗殺された6日後、家臣たちは主君の無念を晴らすべく謀反を企てましたが、挙兵前に発覚して、のちに侍所の所司にもなった、金窪行親(かなくぼゆきちか)らにより討ち取られたと書かれています。

    数百年の時を経て、再び主君の側へ戻ることができたのは、天からのお導きとも言える嬉しい出来事です。

    修善寺に来た際は是非この地に訪れて、静寂な空間に身を置いて、頼家や家臣たちに思いを馳せてみてください。

     

     

     

     

    源氏ゆかりの品や修善寺が誇る文化財が眠る 修禅寺・「宝物殿」

     

     

     

     

    <08_izu:修禅寺境内にある宝物殿>

     

     

     
    源氏ゆかりの地だけではなく、修禅寺の宝物殿には、源氏に関する寺宝が納められており、実物を見ることができます。

    修禅寺は、修善寺駅から東海バス「修善寺温泉」行き、修善寺温泉下車、徒歩約5分ほどの場所にあります。

    館内は撮影禁止のためお写真でご紹介することができませんが、宝物殿で見ることができる寺宝を、少しご紹介します。

    館内には県指定文化財に指定されている、北条政子が指月殿を建立した際に納めたという、中国宋時代の一切経の経典である「宋版放光般若波羅蜜経一巻」などが納められています。

    北条政子直筆の署名が残されているので、こちらも勿論見ていただきたいですが、中でも是非見ていただきたいのが、頼家と範頼が実際に使っていた馬具や頼家の陣旗です。

     

     

     
    <03_izu:路地の石積み>

     

     

     
    馬具は、座る部分の角は大きく削れて、板の塗装がほとんど剥がれ削れていたり、金具部分は欠けていたりと、大分朽ちていることが見て取れます。

    頼家のものと、範頼のものでは馬具の形やデザインが異なっていました。

    また、一部には螺鈿細工が施されており、白く輝いていて綺麗でした。陣旗は、横糸が真鋳の板金で織られています。

    こちらもよれて年季が入っており、将軍頼家と範頼が、激しい戦渦の中を生き抜いてきたことが分かります。

    こちらの宝物殿では他にも、戦国時代の幕開けを告げた北条早雲が、戦で亡くなった敵味方の菩提を弔うために自らの血をもって阿弥陀経を書写し修禅寺に奉納したと伝えられる、「血書阿弥陀経」など、大変貴重なものが数多く残されています。
    かつて正岡子規が修善寺を訪れた際、このような短歌を残しています。
    「この里に かなしきものの二つあり 頼家の墓と 範頼の墓と」
    悲しい最期を告げた2人ですが、このような詩を残してくれているのは嬉しいことですよね。修善寺の地をめぐるときは、是非当時を生きた人たちの声に耳を傾けてみてください。