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半農半漁の村に何が?商いに遠い町から豪商の住む町へ加賀橋立町の秘密

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    東京駅から北陸新幹線・特急サンダーバードを乗り継ぎ約4時間、石川県加賀橋立町(かがはしだてまち)へ。
    加賀橋立町には北前船で栄えた船頭の居住地区があり、日本遺産に登録されています。
    もともとは、半農半漁で平凡な暮らしを送っていた村がなぜ豪商が住む町に?北前船文化の古き歴史を紐解く歴史旅へ。

     

     

     

    加賀橋立町の冨の象徴北前船の物語 近江の八幡商人の雇われ船頭とは

     

     

     

    石川県の南西に位置する加賀橋立町は、大聖寺川や動橋川などによって運ばれてきた土や砂が堆積してた起伏に富んだ砂州が広がり、その土地の特徴は、起伏が激しくなっています。
    そんな土地にできた加賀橋立町。江戸時代中期までは、茅葺屋根が並び、半農半漁の集落だったそうです。
    18世紀中頃に、船乗りから北前船の船主になる者が現れ始め、北前船の船主は一族や村人を船頭や船乗りにしたので、村は廻船業で急速に発展しました。
    そんな急な発展を遂げた加賀橋立町。どのようにして「日本一富豪か住む町」になったのか、歴史の謎に迫ります。

     

     

    <写真01_kaga加賀橋立町>

     

     

    江戸時代中期を過ぎると、橋立町の漁師や、仕事を求めて米作りに適さなかった能登地方からやってきた、越前や加賀、能登、越中の船乗りが近江商人の「雇われて船頭」として蝦夷地への商船を運営します。
    その近江商人は、北海道・松前藩の御用商人、近江八幡商人の西川伝右衛門。なんと近世初頭に北海道(蝦夷地)との交易を行っていました。

     

    全国各地に進出していた近江商人は、蝦夷で仕入れた金や皮革、海産物などを内地へ廻送し多くの利益を得ていました。
    この船乗りたちで力をつけた者がやがて自前の船を持ち、自力で蝦夷との交易を行い、大船主に成長していったのです。
    船主たちが巨万の富と財を築くのは、北前航路が本格化する江戸時代中期になってからでした。

    近江商人と雇われ船頭がベースを整えた北前航路(西廻り航路)といわれる日本海ルートを1639年に最初に試した人物が、加賀藩三代藩主、前田利常です。
    経済の中心、大消費地でもあった大坂には各藩の蔵屋敷がありました。加賀藩は蔵米を大坂に運ぶために、それまでは敦賀で船荷を陸揚げし、陸路と琵琶湖の水運を経て大津、京都、大坂へと運んでいのですが、荷の積み降ろしや陸路を搬送するのは手間がかかり効率も悪いと気付いた利常。
    米100石を下関、瀬戸内海を経由して大坂に廻送し、このルートの有利さを証明しました。
    その後、1672年に幕府の命を受けた河村瑞賢によって蝦夷と大坂を結ぶ西廻りの北前航路が拓かれたと歴史書には記されています。

    そうして北前船の西廻り航路での商売が盛んになり、加賀橋立町は茅葺屋根の半農半漁の町は姿を消し、代わりに豪商の町へと成長してきました。

     

     

     

    文化を運ぶ海の総合商社 北前船がもたらした日本文化の秘密とは

     

     

     

    北前船での商いはなぜ、大きな利益が得られたのでしょうか。
    当時の国内の地域間価格差を考えると、答えを導きだすことができます。
    例えば、北海道で大量に獲れる 鯡(にしん)は、西日本では綿を栽培するための肥料として高く売れました。
    一方、西日本と北日本で衣類の生産技術の差から、西日本の古着が北日本では高価な商品となります。
    上方に 鯡(にしん)を売り、空になった船に古着を積み込み、北日本で売る、押して引いて木を切るのこぎりのように行きも帰りも商売をする北前船は「のこぎり商い」とも呼ばれました。
    一航海千両、と言われた北前船が生み出す富は莫大であり、藩と連動して年貢の積み出しを行う大きな港のみならず、人口の少ないコンパクトな港や集落にも経済的繁栄をもたらしました。

    いわば、比較優位を利用した地域間価格差の商売は、日本全体の発展を促しました。
    いま私たちの生活に欠かせない昆布。昆布はもともと中国大陸から入ってきたものとされています。

    西回り航路の開発によって昆布は北の土地から「天下の台所」大坂に送られるようになり、その日常に浸透していきます。
    北前船が運んだルートは、昆布ロードと呼ばれるようになりました。

     

     

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    そうして食文化の発展にも大きく影響を与えた北前船。
    海の総合商社として日本の繁栄は北前船なくしては無かったのかもしれません。

     

     

     

    虫喰いの船板は仕事の誇り 加賀橋立の町並みに残る廻船商業の繁栄

     

     

     

    これまで、北前船の文化や歴史を紐解いてきました。
    それでは、北前船の船頭が住宅を置いた唯一の町、加賀橋立町に残る多くの文化を紐解いてみましょう。

     

     

     

    <写真04_kaga加賀橋立の町並み階段や坂の様子>

     

     

     

    北前船で栄えた町並みには多くの文化の特徴が垣間見れます。
    加賀橋立町の町なみは、特徴的で、自然の地形を利用し直線的な道は少なく、入り組んだ路地や坂、階段などが目立ちます。
    そのほとんどが港町の特徴として、海に向かう町割りを見せています。

    北前船により発展した港には、輸送だけでなく物資の売買をも兼ねた廻船問屋(かいせんどんや)や商家、蔵など、大規模な建物が残されています。
    船乗りに安らぎと解放を与えた花街や、日和を見た小高い山、航海の安全を祈った神社仏閣など、北前船がもたらした機能が整えられています。
    封建下にあり稲作を中心とした農村や、城下には見られない、海上輸送という手段を手にした商人たちの築いた港町の町並みとも違う「船主集落」。

     

    <写真05_kaga加賀橋立の町並み板>
    土蔵の縦板は外壁を漆喰で仕上げた後の養生として設けられ、縦板を折釘金物で支える掛戸になっており、火災の時はすぐに外せるように工夫されていました。
    そのため装飾的な要素はほとんど見られませんが、この縦板に荒波をともにくぐり抜けてきた虫喰いの船板を用いる様子は、先人たちの仕事に対する誇りを感じました。
    外観の威厳ある構えに対し、内観は一転し豪壮で贅を尽くした空間になっていることも特徴です。

     

     

     

     

    農家を改造!贅沢の限りを尽くした加賀橋立町の旧酒谷家長兵衛住宅へ

     

     

     

    北前船の里資料館を訪れました。旧酒谷家長兵衛さんの住宅であり、橋立に残っている1番大きな歴史的建造物となってています。

     

     

     

    <写真07_北前船の里資料館外観>

     

     

    もともとの加賀地方は農家が多く典型的な建築様式として茅葺屋根の農家がほとんどでした。
    北前船で冨を得た船頭たちはもちろん住宅を改装します。
    その茅葺農家から変化した独自の間取りと建築様式を「橋立北前船主型」といいます。
    昔農家だったということもあり、それまでの農家型の居住形式を発展させたものとされています。

     

     

    <写真06_北前船の里資料館外観>
    石畳や石段、建物の棟の石才などは福井県の足羽山でしか産出していない淡緑青色の笏谷石(しゃくだにいし)でつくられています。
    いずれも富の象徴と言える材でした。これらすべてが集落に柔らかな質感を独特な雰囲気を出しています。
    この建物は一目見ただけでも群を抜いて大きく立派です!
    橋立に来たなら必ず立ち寄りましょう。

     

     

    所在地:石川県加賀市橋立町イ乙1-1
    http://www.city.kaga.ishikawa.jp/kitamae/

     

     

     

    北前船の変遷の歴史と、加賀橋立の北前船文化をめぐる歴史散策旅はいかがでしたか。
    ここ橋立の集落は一面赤い屋根でおおわれ、まるで異空間に来ているような感覚になります。
    きっと味わったことのない雰囲気に魅了されることでしょう。一度訪れてみてはいかがでしょうか。