【大洲城】心揺さぶられる築城と復元のストーリーとは
四国の西、愛媛県の西南に位置する人口4万人のまち、愛媛県大洲市。まちの中心を肱川という一級河川が流れ、内陸の盆地でありながら瀬戸内海に出る舟運の拠点として古くから栄えてきました。
その中心に建つ大洲城。大洲城は時代を変えて4家もの戦国武将が移り変わりおさめてきました。まちのどこからでも見ることができる大洲城の歴史と魅力に迫ります!
この記事の目次
多くの戦国武将のゆかりの地、大洲城の歴史をおさらい
大洲城のはじまりをたどるには、1221年に起こった「承久の乱」までさかのぼります。1221年頃に伊予国守護となった宇都宮氏は、もともと下野国(現在の栃木県)宇都宮郷に本拠を置く地方豪族でしたが、幕府からの信頼によって、代々伊予国守護に任じられるほか喜多郡地頭職を与えられており、現在の大洲周辺を守護していました。
宇都宮氏は、室町、戦国時代には有力な国人領主となり、鎌倉時代末期の1331年、大洲城の前身である、地蔵ヶ岳城(じぞうがだけじょう)を、肱川沿いの小高い丘を住処として築き、戦国末期までの、237年もの間にわたって大洲城を居城としました。
長い間大洲周辺を収めた宇都宮氏でしたが、その繁栄も終わりを告げます。1568年、宇都宮は河野・毛利連合軍に敗れ、城は河野の武将大野直昌が預かるところとなりました。
その後、豊臣秀吉の四国平定後は小早川隆景、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治と城主が次々と代り、その間に近代城郭へと整備が行なわれ、1617年加藤貞泰が城主となったころには城郭のほとんどが整備されていたと考えられています。
お城を見学する際に、さらに詳しく知りたいのは、今現在に残る大洲城は誰によってどのように城郭を作り上げていったのかではないでしょうか。その整備をしたのは、築城の名手、藤堂高虎。さっそく大洲城の整備について勉強しましょう!
築城の名手、藤堂高虎が行った大洲城、城郭整備の鍵は「肘川」?
【藤堂高虎の時代 1595年~】
1585年、羽柴秀吉が四国平定を果たしたのち、大洲城主は小早川隆景に入れ替わり、その後1595年に朝鮮で病死した小早川勝隆の後を受け、同年6月に藤堂高虎が宇和郡板島7万石の城主として封ぜられました。そうして大洲城は、藤堂高虎によって近世の城郭として整備されます。
あわせて宇和、喜多、浮穴の各郡、約6万6千石の蔵入り代官を命じられた高虎は、板島に城代を置き、大洲城を居城としました。1600年高虎は、関ヶ原の戦いの恩賞として、今治国分山城を与えられ20万石となり、さらに、1602年には今治城の普請をを始め、大津には養子の高吉を城代に据えました。1605年奉行田中林斎は、命を受けて城下に塩屋町を創設した商人に褒状を送っています。このころから大津が城下町としての形態を整え始めたのです。
伊予国(現在の愛媛県)は温暖な気候ですが、大洲は盆地に位置し、関門海峡からくる北西風のために気温の低下著しく積雪もある地域です。
【藤堂高虎はどうやって大洲城を整備した?その謎に迫る】
高虎は、大洲城の整備の際に、この地形に目を付けました。大洲城の整備の鍵は、肱川だったのです。肱川は、1688年から1860年の172年間の間に72回も氾濫している暴れ川。江戸時代はもちろんのこと、現代においても猛威を振るう川なのです。
本来であれば、城内にも浸水の恐れがあり、大きなリスクがあるにも関わらず、高虎は大胆にもこの川を堀代わりに使用しました。理由は、人工で作る堀よりもはるかに幅広く深い堀を作るために、肱川を利用する事で低コストで天然の要害を築くことができるためでした。
そんな大きな堀ですが、なんと現在も当時の様子を伺い知ることができます。その場所は、大洲市役所と大洲中学校の間。ここに堀が水路として残っています。
大きな天然の堀に囲まれた大洲城。ぜひ町歩きの際には堀を見付けてみてくださいね。
大洲城の天守閣内部を見学!
お待たせしました。さっそく大洲城を散策してみましょう。
大洲城は町のどこからでも見ることができる印象でした。お城に向かって歩いていると、大きな大洲城の駐車場が。ここは一日110円で停めることができます。
そこから大洲城の天守閣の方向へ歩いて行くと、二の丸大手門跡の看板がありました。天守閣が見えると目の前に広場が。下台所櫓という現存建物もありました。
二の丸御殿跡石垣など立派な石垣が迎えてくれます。何度も折れ曲がりながら登っていきます。まるで城攻めをしている感覚を覚えました。
こちらが本丸です!本丸には大きな復元天守がありました。四層四階の木造天守は19.15mの高さで、復元天守としては日本一の高さを誇ります。本来ならば、19mもの高さの木造構造は、建築基準法では認められない規模だそうです。大洲市は建設を認めてもらえなかったようですが、約2年もの間交渉し、保存建築物として建築基準法の適用除外となり、建設されたのです。
さっそく天守閣の中に入ってみます。天守閣内には入ってすぐに大洲城築城の際の模型が置かれていました。さらに進むと、大洲と日本の歴史が並べてありわかりやすい年表がありました。
さらには復元前の写真など、大洲城に関する歴史の資料が多くありとても楽しめる空間となっています。中でも甲冑は迫力満点。ぜひ見学してみてくださいね。
最上階に上ると、城下町が広がっている様子を見ることができました。反対側は肱川をはさみ自然豊かな大洲の風景を見ることができます。
日本一の完璧な復元、大洲城。復元の裏にある市民の想いとは
大洲城の見学も終了し、出たところに、大洲城が解体される前の写真と天守雛型の写真が置いてありました。
大洲城は、史上最も精巧かつ史実準拠の天守復元と呼ばれています。建物構造の概要を知る手がかりとなったのは、天守雛形と3方向からの大洲城の古い写真。なんとこの天守雛型、棟梁の子孫宅にあった木組み模型だそうです。
こうした多くの復元材料が偶然にもそろったことから、大洲市は、徹底した木造復元を目指しました。大洲城は、国産の木を使い、伝統工法を使って建てられています。さらには、工事中の見学者の積極的な受け入れや宣伝によって、見学者は2万人以上!寄付金は5億円を越えたそうです。
市民の想いも詰まった大洲城。ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。
大洲城に伝わる悲話、肱川の由来「おひじ」の想い
現在、多くの壁がある中で復元された大洲城ですが、実は宇都宮氏が大洲城(このころの呼び方は地蔵ヶ嶽城)を築城していたころにも、何度も築城の試練があったそうです。
大洲城の高石垣を何度積んでも、すぐに崩れたり、肱川の洪水で石垣や櫓が押し流され、一進一退の難工事だったのです。そのため「これは、祟りに違いない」と言う事になりました。
そこで、人柱を立てることとし、選ばれたのが「おひじ」という身寄りのない16歳の娘でした。「おひじ」は「城の名と城の麓を流れる川の名を私の名前と同じにして後の世まで忘れないでほしい…」と言い残して人柱になったと伝えられています。
大洲城の別名を「比志城」、肱川を「比志川」というのもこのためです。かつて、おひじが住んでいた場所は「比地町」になっています。おひじを弔う地蔵尊が丘陵の中腹に祀られたことから地蔵ヶ嶽城とも呼ばれました。
こうした犠牲の上に今のお城は建っているのですね。その想いをも現代に引き継ぎ、復元された大洲城、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。
大洲城をめぐる旅は、いかがでしたか。お城一つ観光するだけでも、様々な背景や歴史、そして想いがあります。大洲では、築城の名手である藤堂高虎による肱川を利用した堀。そして先人たちが駆け抜けた歴史を守り繋げる大洲市の人々。
ぜひそんな想いを感じる旅に出かけてみてはいかがでしょうか。