九州最大級の前方後円墳の主 筑紫磐井とその栄枯盛衰の探る八女の旅
福岡県北西部に位置する八女市。そこには福岡県民も知らない数多くの歴史が眠っています。
九州最大級の前方後円墳を生前に作った、筑紫君磐井(つくしのきみいわい)。
古事記や日本書紀にもその名がある有力豪族の歴史には多くの謎が隠されています。
次の休みにそんな謎を掘り起こす歴史旅をしてみませんか?
この記事の目次
九州最大級の前方後円墳・岩戸山古墳と八女の豪族・筑紫君磐井の盛衰
福岡空港から電車で約1時間。八女市の中心部からバスで約10分。
地上から見ると、ただの森にしか見えないほど大規模な古墳があります。
これは500年頃、この地域にいた有力豪族、筑紫君磐井の墳墓だと言われています。
磐井と同じ時代を生きたヤマトの大王・継体天皇のそれと遜色ない大きさであり、当時磐井がどれほどの力を持っていたのかということがよく分かります。
磐井やその祖先の時代は頭が良く、鉄器や青銅器を入手できたリーダーが集団を形成し、その集団が集まって国が成り立っていました。磐井の祖先もそんなリーダーであったと考えられています。
磐井は「磐井の乱」という527年に起こった争いで歴史にもその名を残しています。
日本書紀では磐井は天皇に逆らった反逆者とされています。
その当時、倭の国を治めていた継体天皇を中心としたヤマト王権がどんどん力を増していき、日本統一のために九州にもかなりの圧力をかけていたと言われています。
磐井は九州の古くからの豪族であり、他の豪族たちを従え、磐井の乱を戦い抜きました。
八女で最初かもれしれない裁判の様子を人々に広く知らしめる所・別区
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岩戸山古墳の後円部に約40m四方の開かれた土地があります。
ここは「別区」と呼ばれるところで古墳と同時期に出来たとされています。
磐井の乱から約200年を経た奈良時代に作られた筑紫国風土記によると、別区において、解部(ときべ)という裁判官がイノシシを盗んだ盗人の罪を裁いたという記述があります。
その後、裁判の様子を石人や石猪を配置して表し、人々に広く知らしめる場所となっていたそうです。
もしかしたら、八女で行われた最初の裁判の様子かもしれないと考えると、とても感慨深い思いでした。
このような石人が配置されていました。
また、特別な祭祀の場であったとも考えられています。
全国の古墳の中でこのような別区を有し、明確に年代まで残っているのはこの岩戸山古墳だけだと言われています。
現在は岩戸山歴史文化交流館や東京上野の東京国立博物館で見ることが出来ます。
岩戸山古墳 所在地 : 福岡県八女市吉田
全国から考古学ファンが訪れる、古代八女を新たに発見できる場所
岩戸山古墳の隣には筑紫磐井とその一族の歴史を紹介していたり、古墳の出土品を展示している岩戸山歴史文化交流館があります。
常設展示には岩戸山古墳から出土した国指定重要文化財が所狭しと並べられており、そのスケールの大きさに圧倒されます。
岩戸山古墳の最も大きな特徴はそれらの出土品にあります。
本来であれば、古墳には埴輪が供えられているものですが、岩戸山古墳では埴輪の代わりに石人や石馬が出土されています。
阿蘇溶結凝灰岩という彫刻が可能な石材で作られており、この石材が採れる九州中北部でのみ、埴輪をあえて、石で大きく作る石人、石馬が生まれたそうです。
中には綺麗に形が残っているものもありますが、多くは胴体と頭部が別々になっています。
これは、後に八女市の中心部に出来た福島城を大修築した田中吉政が石人などを壊し、一部を石垣などに使用したからだと言われています。
元々はべんがらという染料で赤や黄、緑といったカラフルな色に染められていたそうで、今でもかすかに色が残っている石人もあります。
岩戸山歴史文化交流館 所在地 : 福岡県八女市吉田1562-1
http://www.city.yame.fukuoka.jp/iwatoyama/index.html
日本書紀と筑紫国風土記では磐井の乱の結末が全く異なっています。
磐井は斬られ反乱は鎮圧されたと日本書紀には記されています。しかし、筑紫国風土記の逸文では豊前国の山深い地に逃れたと記しています。
実際に岩戸山古墳と岩戸山歴史文化交流館を訪れ、磐井の終末に思いを馳せてみませんか?