名古屋から電車で1本!伝統工芸品有松絞りと共にある町、重伝建「有松」
愛知県名古屋市の都会の街に隠れ、ひっそりと江戸の面影を残す有松のまちなみ。重要伝統的建造物群保存地区に指定されている有松は、東海道を行き交う旅人たちに大人気の町でした。
参勤交代を終えた諸国の大名が、自国に帰る際に立ち寄るほどだったといいます。その目的は、有松独自の絞り染めブランド「有松絞り」でした。
今回は、工芸品で発展した商家の町、有松をご紹介します!
この記事の目次
自慢の名産品で大繁盛!栄華を極めた商家の町、有松ってどんなとこ?
名鉄名古屋駅から電車に揺られること約20分。名鉄線有松駅につきました。
さらに名鉄線有松駅から徒歩3分。踏切を渡ってすぐの交差点を曲がると、日本の伝統的建築様式を取り入れた家屋が並ぶまちなみが突然現れ、タイムスリップしたかのような気分を味わえます。
有松の歴史は、江戸時代から始まります。関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康。時代は、豊臣家から徳川家に移り変わります。
征夷大将軍に任命された徳川家康が江戸で幕府を開いたことで、将軍のいる江戸、そして天皇がいる京都を結ぶ東海道は次第にその重要性が高まっていました。
その東海道の宿場、鳴海宿(なるみしゅく)と池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく、現在の知立)の間に位置していたここ有松地域は、昔桶狭間戦いがあった古戦場跡で、人家のない荒地でした。
なんと旅人が追いはぎや強盗の被害に遭うほどの荒れようで、東海道の治安を損ねていたそうです。
そこで1608年、尾張徳川家を藩主とする尾張藩は、安全を図るために住民を募り、ここに新しい集落として有松をつくりました。有松という名前になったのは荒地に松林が生い茂っていたから、という説があるそうですよ。
こうして鳴海宿と池鯉鮒宿の間宿(あいのしゅく)としてつくられた有松でしたが、耕地が少なく稲作に適さない土地柄や、鳴海宿との距離が近かったために茶屋としての利益も乏しく、村の発展がうまく進みませんでした。
「村の収入源を確保したい…。」そんな思いからか、移り住んだ住人のひとり、竹田庄九郎が名古屋城の築城(1610~1614年)のために九州からやって来ていた人たちの絞り染めの着物からヒントを得て、絞り染めをした手ぬぐいなどを土産物として売り始めました。
するとそれが、東海道の旅人たちに徐々に人気になります。
また、参勤交代を終えた大名たちが江戸からの帰り道、有松に立ち寄って、自分の国への土産物を買い求めるようになります。大名たちが国に持ち帰ることで、有松の名は全国に知れ渡りました。
「尾州藩御用達」の看板も引っさげて、有松の絞り染め商品「有松絞り」が東海道を代表する名物になるのに時間はかかりませんでした。
町を襲った悲劇、どん底からの復活劇。この町にはストーリーがある。
1700年頃から流行し始めた、伊勢神宮への参拝「おかげ参り」によって旅行客が増え、東海道はより一層の賑わいを見せます。もちろん、それにともない有松絞り業も右肩上がり。
加えて、この頃になると鳴海などの周辺地域でも絞り業(鳴海絞り)が行われていましたが、尾張藩は1781年に有松絞りの保護のために絞り染め業の独占営業権を有松に与えたのでした。
しかし、そんな順風満帆の最中、悲劇が起こってしまいます。
1784年、有松の町全体にまで広がる大火災がありました。有松は、町の創設以来ずっと町屋のほとんどが茅葺き屋根だったために、一瞬にしてその全てを焼失してしまいました。。。
このどん底から、有松は立ち上がります。
すぐさま藩の援助を受けて復興が開始されました。この復興を機会に、町屋に防火建築を取り入れたのです。この時の塗籠造り(ぬりごめづくり)とよばれる防火構造の建築様式が、現在の有松のまちなみを形作っています。
それでは有松で見られる日本の伝統的建築様式を3つほど簡単にご紹介します。
・海鼠壁(なまこかべ)
方形の瓦を並べ四隅を釘止めとし、漆喰を塗り上げてその断面を海鼠形にしたものです。耐火性の強さから民家の土蔵造りの腰壁に使われるようになりました。
・虫籠窓(むしこまど)
町屋の2階に開けられている窓で、通気孔として開けられたのが始まりといわれています。虫籠格子という、窓枠や格子木の角材を6つ割にしたものを心にして縄を巻きつけたものを格子としています。後に、格子を漆喰塗りとして防火構造になりました。
・卯建(うだつ)
屋根の端の部分にもう一つ小屋根を乗せたようなものが、本うだつと呼ばれます。隣接する家からの燃え移りを防ぐための防火壁としてつくられました。しかしながら、次第に装飾として用いられるようになり、その家の財力を示すものになっていきました。そこから、状態がいまいち良くないという意味の「うだつが上がらない」という慣用句の語源にもなりました。
大火から約20年かけて、元の活気をなんとか取り戻すことができた有松。…なんとここから有松はまた繁栄期を迎えます。
復興が終わったちょうどこの頃から、文化・文政時代(1804~1844)と呼ばれる時代がやってきます。
文化・文政時代とは、江戸で町民文化が花開いた時代のこと。町民・庶民も財力を蓄えて、生活にゆとりが出始めます。そこでまた「おかげ参り」が大ブームに!お金があって、戦乱のない、平和で自由な時代に民衆は、東海道を歩いてお伊勢さんへと旅に出かけるのでした。
時代の流れを味方につけて有松は完全復活。防火構造も施され生まれ変わった商家のまちなみは、うだつなどの装飾的要素も加えて、より一層の繁栄を人々に示しました。今も残る豪壮な商家が立ち並ぶまちなみができあがっていたのでしょう。重要伝統的建造物群保存地区に指定された景観の美しさの裏には、苦労を重ねた長いストーリーがあったのですね。
街道一とまでいわれた「有松絞り」は、なぜそれほど人気だったのか?
全盛期には、「街道一の名産品」と賞賛されるまでになった有松絞り。1975年には、愛知県初の伝統工芸品となりました。なぜ有松絞りがここまで花開いたのか。その答えは日本人ならではの根気強さと技術力にありました。
絞り染めは布を糸でくくって、生地にシワを作り、その状態で染料に浸すことでシワの部分が染まらずに模様を生み出します。有松絞りは新たな模様を生み出す新技法を次々と開発し続け、その他の絞り染め産地を圧倒していたそうです。
模様の種類はなんと、100種以上にもなるとのこと。それらは、絞り染めの試作改良を続けてきた先人たちの、まさに伝統といえます。
有松絞りは、手ぬぐいや反物がよく売れていたそうです。反物とは、巻物のように巻き上げられた着物を仕立てる前の布のことで、女性の旅人も買っていたようです。それだけ多くの種類の模様が並べられていたら、、、買ってしまいそうですよね。
渡したい相手の好きそうな模様を選んで買っていく、土産物にもピッタリだったのではないでしょうか!
現在では、伝統ある販売店もあれば、おしゃれでかわいい有松絞りの雑貨屋さんもいくつか並んでいました。
伝統の手ぬぐいや振袖・着物はもちろんのこと、Yシャツ、ネクタイ、スカーフ、シュシュ、帽子に日傘にテーブルクロスなどなど、たくさんの商品があります!有松に行かれたらぜひ買ってみてくださいね!
有松のまちなみのオススメスポットとカワイイのれんを見に行こう!
さて、ここで有松のまちなみのオススメ観光スポットを3つ紹介します。
・服部邸(井桁屋)
有松絞り問屋の代表的な建物で、愛知県指定文化財になっています。主屋の塗籠造(ぬりごめづくり)、2階の虫籠窓(むしこまど)、蔵に用いられている海鼠壁(なまこかべ)など、有松に見られる日本の伝統的建築様式が詰まっています。
現在は、「井桁屋」として有松絞りの商品を販売しています。
所在地 : 愛知県名古屋市緑区有松2313
営業時間 : 10:00~17:00
・有松・鳴海絞り会館
1階はお土産コーナー、2階は資料館になっています。
資料館では、展示物のほかに、有松絞りの歴史を分かりやすくまとめたムービーが流れていたり、実演コーナーで実際に木綿布に糸をくくりつける様子を間近で見学したりすることができ、より深く有松絞りの歴史と技術に触れることができます。
所在地 : 愛知県名古屋市緑区有松3008
営業時間 : 9:30~17:00
・有松絞り久田 本店
有松の町並みの西端、祇園寺を右手に左の小道に入っていくと門構えがあり、その奥には久田本店の風情あるお庭が広がっています。
有松絞りの伝統の技を受け継ぎながら、現代に合わせた多彩な商品が揃っています。駅前の交差点にも久田の駅前店がありますが、こちらはその本店になります。
所在地 : 愛知県名古屋市緑区有松616
営業時間 : 9:00~17:00
そして、おまけでもう一つご紹介!それは「ありまつ」と書かれたこのカワイイのれんです。
実はこののれん、町並みのいたるところで目にします。
ご紹介した服部邸を始めとする商家の建築物や雑貨屋さんの店先。薬局や郵便局、なんとなんと一般のご家庭にもこののれんがかかっていました。全部で何枚あるのか。興味のある人は数えてみてください!
また、のれんの向こう側から、切れ間に顔を覗かせる「大将、まだやってる?」ポーズはとっても写真映えしますから、ぜひぜひやってみてくださいね~!
有松のまちなみいかがでしたでしょうか?
有松絞りと共に発展してきたこの町。有松の歴史は、有松絞りの歴史そのものなのです。そして、その伝統と技術は絶えることなく、現代に寄り添いながら私たちを魅了しています。進化を続ける「街道一の名産品」。その歴史と文化、そして今の姿を見に行く旅に出かけてみませんか?