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会津戦争の舞台となった会津若松「鶴ヶ城」で歴史に浸る

  • 会津戦争の舞台となった会津若松の「鶴ヶ城」。鶴ヶ城は、日本唯一の赤瓦を使用した城であったり、会津を収めた6家もの城主の歴史が詰まり、会津戦争で約1ヵ月もの期間、籠城に耐えた魅力の沢山詰まったお城です。
    鶴ヶ城に行く前に知りたい、鶴ヶ城を何倍も楽しめる情報をご紹介します!

     

     

    伊達政宗から蒲生氏郷へ会津若松シンボル歴代城主が納めた鶴ヶ城とは

     

    まずは、鶴ヶ城の歴史をおさらいしましょう。鶴ヶ城の歴史は歴代の城主をみるとわかります。
    【歴代城主鶴ヶ城の歴史】
    鶴ヶ城の城主は、徳川の時代に京都守護職として活躍した松平容保(まつだいらかたもり)が有名ですが、実は葦名(あしな)・伊達・蒲生(がもう)・上杉・保科・松平と数多くの大名が会津若松を治めた歴史があります。

    鶴ヶ城は、1384年の南北朝時代に蘆名直盛(あしな なおもり)に居城として創営されたことからはじまりました。当時はその名を黒川城といいました。

    1589年には蘆名氏を滅ぼした伊達政宗が黒川城に入城します。翌年、豊臣秀吉は、奥州仕置によって政宗から城を取り上げ、信頼を置ける武将を東北にも置きました。政宗の代わりに築城の名人と称され、秀吉の信頼が厚かった蒲生氏郷が入城したのです。

    黒川城に入城した蒲生氏郷は、城を5層から7層へ近世城郭へと改造し、城の名前を「黒川城」から蒲生家の家紋の舞鶴にちなみ「鶴ヶ城」と改名しました。城下町も同時に整備し、会津の繁栄に努めます。

    蒲生氏郷の死後、上杉景勝が入城しますが、関ケ原の戦いで徳川家康に敗れ米沢に追い出されてしまします。その後、蒲生氏や加藤氏が入り、1643年に徳川秀忠の子、保科正之が入り、保科家の三代目正容の代に松平の姓が許され、幕末まで松平氏が領主として君臨することとなりました。

     

    【戊辰戦争と会津戦争の歴史】
    鶴ヶ城の最期の城主、松平氏が藩主を務める際に、鶴ヶ城で最も有名な出来事である会津戦争が起きました。なんとこの会津戦争では、約1ヵ月もの間、籠城戦を強いられることとなります。

    ここで戊辰戦争の流れをおさらいしましょう。1868年、第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還をして朝廷に政権を返還したにも関わらず、実際は旧幕府側が権力を変わらず保持していました。納得がいかなかった薩摩、長州藩中心の新政府軍が旧幕府勢力を一掃しようと勃発したのが戊辰戦争です。

    初戦の「鳥羽伏見の戦い」で敗北の色が見え、徳川家最後の将軍となった徳川慶喜が大阪城を出て軍艦開陽丸にて江戸へ脱走。上野の寛永寺大慈院で閉じこもってしまいます。
    そうして直接に慶喜を攻撃できずに終わった新政府軍は、その矛先を京都守護職として、長州藩中心の浪士を武力で取り締まっていた会津藩に向けました。
    1868年の1月、新政府は仙台、米沢を中心とする東北の各藩に会津追討令を出します。しかし東北諸藩とその周辺の藩は「この戦いは、薩摩、長州藩の私怨による戦い」なので追討などできないと考え、逆に奥羽越列藩同盟を結び、新政府軍に反旗を翻します。そうして新政府軍は同盟諸藩と会津戦争という戦闘を始めました。これが会津戦争です。

     

    <02_aizuwakamatsu:鶴ヶ城の全体像>

     

     

    会津戦争の舞台 1か月にも及ぶ籠城に耐えた鶴ヶ城と会津の歴史

     

     

    歴史をおさらいしたところで、鶴ヶ城に訪れてみましょう。

     

     

     

    <01_aizuwakamatsu:会津若松駅>

     

     

    会津若松駅からは、街中周遊バス「あかべぇ」で約20分。バスを降りてしばらく歩くと、日本で唯一赤瓦を用いた鶴ヶ城(つるがじょう)の天守閣が見えてきます。この赤い瓦は、通常の瓦の表面に釉薬を塗って焼いたものです。福島の厳しい冬に耐えるために特別につくられました。
    <01_aizuwakamatsu:鶴ヶ城の全体像>

     

    【籠城に耐えるために工夫された塩蔵】
    さっそくお城に入ってみます。入ってすぐの空間は、冷涼な環境を利用し、籠城時の蓄えのため塩を備蓄する「塩蔵」が設けられています。ちなみに塩の貯蔵庫として使われていたため塩蔵と呼ばれていました。海を持たない会津若松にとって塩は非常に貴重だったそうです。

     

     

    <03_aizuwakamatsu:鶴ヶ城の塩蔵>

     

     

    鶴ヶ城の天守台の内部には、塩蔵のような貯蔵機能が多くあり、会津戦争の際、約1か月にも及ぶ籠城戦に大きな役割を果たしました。なんと11個の櫓に「干飯」と呼ばれる保存食を蓄えていたそうです。最も大きかった干飯櫓は現在復元されています。

     

     

    【天守閣の展示】
    天守閣の内部には、一層から四層まで、会津の歴史が分かりやすく紹介され、展示も行っています。修学旅行生なども多い城内ですが、誰もが黙々と当時の資料や解説を読んでいました。貴重なものも多く、つい足を止めてしまうのです。写真を撮ることができない展示品が多いため、ぜひ実際に見てください。特に蒲生氏郷の漆黒の兜には思わず見とれてしまいました。

     

     

    白虎隊や会津の人々の希望「鶴ヶ城」で会津戦争の悲劇を感じる

     

    【天守閣最上階へ】
    会津の歴史を学び、最上階である五層へ到着。会津の山々と城下町が一望できました。
    かつてこの鶴ヶ城は「東北の要塞」とも呼ばれ、高さ20mに及ぶ石垣と、12の櫓による堅固な縄張りを誇った城。「落とされるわけがない」と思うほどの会津の人々にとって希望の城だったそうです。

     

     

    <02_aizuwakamatsu:鶴ヶ城からの風景①>
    <03_aizuwakamatsu:鶴ヶ城からの風景②>
    会津戦争では白虎隊の少年たちが飯盛山で自刃するなど、悲話が現代にも伝えられています。当時の白虎隊は16、17歳の武家の男子によって構成され、中には13歳の少年もいたと言われます。郊外の飯盛山にあった白虎隊二番隊の少年たちは、城下から上がる黒煙と火災を見て、若松城の落城と誤解して自刃を選択、19名の命が失われました。現在、その悲劇は今も伝えられ、飯盛山の麓にある墓地には自刃した少年たちの墓が並んでいます。
    かつて幼い彼らはどんな想いでこの鶴ヶ城を見ていたのでしょうか。
    悲劇の背景がある鶴ヶ城の最上階から見て広がる城下町は美しくよみがえり、現在のこの風景が出来上っています。この景色は、「きれい」「素晴らしい」という一言では表せません。
    今、目の前に広がっている山々は会津若松の復興を見守ってきたのだということを深く感じられる場所でした。
    景色を楽しむだけではないこの鶴ヶ城。ぜひ旅のはじめに訪れてみてください。

    所在地: 〒965-087 福島県会津若松市追手町1-1

     

     

    いかがでしたか。鶴ヶ城は現在も、地元の人々にとても大切にされている場所であり、悲劇を繰り返さないために歴史を伝え続ける場所でした。
    そこには、藩士たちの想いが眠るだけではなく、ともに戦った人々、過去を今につなげる人々の想いも込められていると感じました。そんな想いに触れる歴史旅を、ぜひお楽しみください。

     

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