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舞鶴が誇る田辺城跡 城主細川幽斎の才に触れ風情のある城下町を巡る

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    京都府の北に位置する舞鶴市。
    舞鶴は港町のイメージが強いかと思いますが、西側の西舞鶴は、戦国時代後期から明治初期まで、田辺城の城下町を形成していました。
    今回は城下町 舞鶴の歴史を感じる旅に出かけます。

     

     

    関ヶ原の戦いの前哨戦 田辺城籠城

     

     

     

     

    <写真02_alt:alt田辺城門>

     

     

     

    旧軍港の町として有名な舞鶴にそびえる「田辺城」。
    舞鶴が旧軍港の町となる前、「城下町」であったのは、意外と知らない方が多いのでは。
    田辺城は、細川藤孝(通称 細川幽斎)の隠居城として、1580年に築城されました。
    天守台と本丸を中心に、二の丸・三の丸、さらに堀と伊佐津川と高野川に囲まれた、防御の固い城でした。

     

     

    そんな田辺城で、「関ヶ原の戦い」の前哨戦がありました。
    いまから約400年前の1600年。
    天下統一を成し遂げた、亡き豊臣秀吉の跡継ぎをめぐって、東軍と西軍、2つの勢力にわかれます。
    東軍を率いるのは徳川家康、西軍を率いるのは石田三成。
    細川氏は東軍についたため、西軍約2万5千人が田辺城へ攻めてきました。
    しかし不運なことに、忠興率いる主力の軍は、会津攻めに参戦しており不在でした。
    幽斎はわずか5千人という、圧倒的に不利な状況で戦うこととなります。

     
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    そこで幽斎がとった行動は「籠城(ろうじょう)」です。
    籠城を続けること約1か月半、援軍の見込みはありません。
    田辺城落城が目前に迫っていました。
    この危機を救ったのが、後陽成天皇でした。
    後陽成天皇は、両軍に勅令を出して仲介に入ったのです。
    そして西軍は包囲網を解き、幽斎は田辺城を開城し、前哨戦「田辺城籠城」は幕を下ろしました。

     

    細川幽斎の危機を救った後陽成天皇

     

     

     

    <写真04_alt:alt田辺城跡の全体像>

     

     

    武士同士の権力争いであった関ヶ原の戦い。
    その前哨戦である田辺城籠城において、なぜ後陽成天皇が勅令を出したのでしょうか?
    それは幽斎が「古今和歌集」の秘事公伝の伝承者であったからです。
    幽斎は武人としてだけではなく、文化人としての才能も輝かしいものでした。
    1576年に、三条西実枝から古今伝授を受け、当時唯一の伝承者となります。

     

     

    <写真07_alt:alt田辺城跡のメタセコイヤの木>

     

     

    また当時朝廷が文化の継承を担っていたことから、後陽成天皇の弟 八条宮智仁親王は、幽斎に教えを受けていました。
    そのことから、勅使として派遣されたのは、八条宮智仁親王であったと伝えられています。
    八条宮智仁親王は二度にわたって、幽斎のもとに赴きましたが、幽斎は武士の誇りから開城を断ったそうです。
    そして幽斎は、古今伝授の秘伝書と和歌一首を託しました。
    和歌:いにしへも今もかはらぬ世の中にこころの種を残す言の葉
    歌意:変わらない悠久の時の流れの中に、和歌は言葉によって心の種を残していくものである。 (そのように私の歌と心も残るのならばありがたいことだ。)
    その後、廷は西軍に、「幽斎は偉大な文化人である、包囲を解け」という趣旨の勅令を出し、籠城が終結します。

     

     

    <写真09_alt:alt田辺城跡の石碑拡大図>
    幽斎の和歌が記された「心種園碑」が建っているところは秘伝書を伝えた場として現在も田辺城跡に残っています。
    この場所は古今伝授ゆかりの心種園(しんしゅえん)として有名です。

     
    この和歌からは籠城に対する、幽斎のはかなげな想いが読み取れますね。

     

     

    <写真11_alt:alt古今伝授の石碑>

     

    田辺城跡の見どころ

     

     

    細川氏の籠城後、田辺城は約290年もの間、細川・京極・牧野氏の居城として使われました。

     

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    創建時の城郭は、わずかしか残されていませんが、城門や天守台が復元されています。
    また本丸付近は、舞鶴公園として整備されています。
    石垣に囲まれた広場に桜並木もあるので、お花見に人気だそうです。
    こちらの城門は、ふるさと創生事業で平成初期に復元されたものです。

     

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    <写真05_alt:alt田辺城資料館>
    城門の2階には田辺城資料館があります。
    細川幽斎をはじめとする、田辺城の歴代城主や、当時の城下町を知ることができますよ。
    田辺城跡の石垣の向かい側には、井戸跡があります。
    井戸跡からは陶磁器や瓦、さらにイルカやリス、イノシシなどの骨といった、当時の生活を伝える貴重なものが数多く発掘されました。

     

     

    緑広がる田辺城跡内に立つ、ひときわ大きな木。
    この木は、京都府ではじめて植えられたメタセコイヤだそうです。
    ここで戦乱があったとは思えないほど、緑豊かでおだやかな空間が広がっていました。
    おだやかな空間が広がる田辺城跡を散策しながら、籠城していた幽斎の心境を考えてみてはいかがでしょうか。

     

    田辺城城下町の姿を残すスポット

     

    <写真13_alt:alt明倫小学校の正門>

     

     

    田辺城跡周辺には、風情ある城下町の名残が見られます。
    城郭を見た後は、城下町を散策しに行きましょう。
    田辺城の城門を出ると、明倫小学校の周りを取り囲む塀、そして正面にある立派な門が、目に飛び込んできます。
    明倫小学校は、1700年代後半に6代目藩主 牧野宣成(まきのふさしげ)が創設した藩校、明倫斎が始まりとなっています。

    明倫斎には、8歳から成人するまでの士族師弟が通っていました。
    朱子学や漢学、医学などを学び、優秀な師弟は藩がお金を出して、遊学に行かせたそうです。
    幕末には、職員約50人、生徒約250人が在籍していたと伝わります。
    1860年代に明倫館(めいりんかん)と改められ、1872年に学制の発布にともない、翌年に現在の明倫小学校となりました。

     

     

    周辺の塀は、近年建設されたものですが、正門は当時のものをそのまま移築しており、昔ながらの風情が感じられます。
    正門は明倫小学校の入学式と卒業式には開かれるそうです。

     

     

    <写真14_alt:alt明倫緑地>

     

     

    さて明倫小学校の正門の前を通り、明倫緑地をすぎて多くの車が行き来する道路を渡って歩くこと約5分。
    城下町だった当時の情景が思い浮かぶ竹屋町通にやってきます。

     

     
    <写真15_alt:alt竹屋町通>

     

     

    江戸時代、竹屋町は城下町の商業地として栄え、多くの蔵や商家が軒を連ねていました。
    現在も高野川に面したところでは、大きな蔵が立っていたり、通りには商家が並びます。
    歩いていると、当時の活気ある商人の声が聞こえてくるようですよ。

     

    <写真16_alt:alt竹屋町通付近の商店街>

     

     

     

    田辺城跡、明倫小学校、竹屋町通りと、城下町の風情が今でも残る西舞鶴。田辺城籠城のエピソードは、幽斎が城主でなければありえなかったことでしょう。もしそうでなかったら、と考えを巡らせながら、城下町を散策してみては。

     

     

     

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