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旧軍港のまち舞鶴 なぜ平穏な半農半漁の村に鎮守府が?歴史を紐解く

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    かつては軍港として栄え、現在は国防の重要拠点となっている、京都府舞鶴。
    なぜ半農半漁の村に、舞鶴鎮守府が置かれたのでしょうか。
    今回は、舞鶴が軍港となるまでの歴史をたどり、その歴史を伝える史跡めぐりにでかけます。

     

     

    なぜ舞鶴が軍港となったのか

     

     

    まずは舞鶴が軍港になるまでの歴史をたどっていきましょう。

     

    時は明治時代。欧米列強との差を感じていた日本は、「富国強兵」を打ち出します。
    その富国強兵に追い風をかけたのが、ロシアとの緊張の高まりでした。1894年に起こった日清戦争に勝利した日本は、ロシアを朝鮮半島から撤退させることに成功します。
    そして日本はロシアからの復讐を予想し、来るべき戦いに向けての備えを考えます。そこで日本海側の軍事拠点として白羽の矢が立ったのが、舞鶴だったのです。
    ここから軍港としての舞鶴の歴史が始まります。

     

    <写真01_alt:alt明治の舞鶴の地形図>

     

    では数ある港の中で、なぜ「半漁半農」の町であった舞鶴に、白羽の矢がたったのでしょうか。
    もともと舞鶴は、日本海側に面していることから漁業が盛んで、由良川近郊では農業が営まれていた町でした。そんな舞鶴には、軍港として最適なポイントが3つありました。
    その3つのポイントとは…
    1.湾口が狭いため、外から見えにくく防御に適している
    2.波が穏やかで、波浪の影響がない
    3.多くの艦船が停泊できる
    というもの。
    この3つのポイントから、1901年日本海側ではじめての鎮守府 舞鶴鎮守府が設置され、軍港 舞鶴が誕生したのです。
    その後敵の侵入を防ぐために、要塞化された砲台が6つ設けられるなど、軍港を中心に町が発展していきます。
    1945年の終戦を迎えるまでの間、舞鶴は日本海側の防衛拠点として活躍しました。

     

    旧軍港 舞鶴の歴史を感じる3つの史跡

     

    <写真03_alt:alt北吸トンネル>

     

     

    それでは軍港 舞鶴の歴史を感じる、3つの史跡めぐりに参りましょう。
    まずはじめに訪れたのが、赤れんがのレトロな雰囲気を出すトンネル「」です。

     

     

    <写真04_alt:alt北吸トンネル内部>

     

     

    1904年に海軍施設への物資運搬のため建設された、中舞鶴線の線路上にあります。
    現在は歩道・自転車道になっており、トンネル内は夏場でもひんやりとした空気が流れていました。
    よくれんがを見ると、見た目の美しいフランス積みではなく、高強度のイギリス式の積み方で作られています。
    赤れんがパークの建造物には、フランス積みが用いられているので、ぜひ見比べてみてくださいね。

     

    <写真02_alt:alt舞鶴海軍工廠>
    続いて、こちらは艦船を製造・修理する、舞鶴海軍工廠(まいづるかいぐんこうしょう)です。
    1903年11月10日に設立され、主に駆逐艦の製造を担いました。
    当時の駆逐艦は、船として航海する上で必要な安定性・旋回性能に長けた、魚雷を積んでいる軍艦を指します。
    現在中は非公開となっており、外観だけの見学です。
    さすが駆逐艦の製造を担うだけあって、広大な広さに鉄筋れんが造りの建造物がいくつも並んでいます。
    いまも造船会社の工場・倉庫に使われています。

     

     

     

    <写真03_alt:alt北吸第一配水池>

     

    アーチ状に赤れんがが積まれているこちらの建造物は、旧北吸浄水場配水池です。
    鎮守府開庁と同時に旧海軍の水道施設として建設されました。
    国の重要文化財に指定されており、通常は非公開ですが、イベント時に公開されています。
    中をご覧になりたい方は、舞鶴赤れんがパークのHPでイベント情報を確認していきましょう。

     

    旧軍港 舞鶴の立ち上げ人

     

     

    ・舞鶴海軍工廠・旧北吸浄水場配水池と3つの史跡をめぐると、舞鶴は軍港として栄えてきたことがわかります。
    その軍港 舞鶴の立ち上げに貢献した人物が、日露戦争でバルチック艦隊を破った海軍司令官、東郷平八郎であるのはご存知でしょうか。

     

    <写真06_alt:alt東郷平八郎>

     

    東郷は、舞鶴鎮守府 初代司令長官として招かれ、2年間司令長官を務めました。
    1871年から7年間、イギリスに留学して最先端の軍事について学んだ東郷が任じられるということは、国を挙げて舞鶴の軍港整備に取り組んでいたといえます。
    東郷は地元の行事にまめに出席し、積極的に舞鶴の住民と交流していました。
    また自分の娘を地元の学生といっしょに、徒歩で学校に通わせていたそうです。
    東郷の気さくな人柄が表れるエピソードですね。

     

    <写真07_alt:alt旧東郷邸>
    その東郷が往時を過ごしていた司令長官官舎が、いまも残されています。
    現在は「東郷邸」として、毎月第一日曜日のみ公開されています。
    趣きのある和洋折衷の様式です。

     

    <写真08_alt:alt海軍記念館>
    お時間がある方は、旧東郷邸から徒歩約10分のところにある、旧海軍機関学校大講堂へも足を運んでみてください。
    現在は海軍記念館として、東郷や旧日本軍の資料約200点が展示公開されています。

     

     

    現在の国防拠点 舞鶴 北吸桟橋で艦艇見学

     

    舞鶴の軍港としての機能は、終戦後も海上自衛隊へと引き継がれました。
    現在、日本海側で唯一の海上自衛隊の基地が置かれています。そのため舞鶴では間近で最新鋭の護衛艦を見学することができます。赤れんがパークを通り過ぎ、国道27号線を歩くこと約10分。

    北吸桟橋前に到着します。
    土日祝限定で、大迫力の艦艇(かんてい)を見学することができます。自衛官の方が案内してくださり、質問も答えていただけました。

     

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    見渡すと、どの艦艇もうすいグレー。
    この色は、大気が不安定になりやすい日本海側で、身を隠すのに最適な色だそうです。

    どの艦艇が見られるかは、公表されていないため、当日のお楽しみです。
    1か月に数回は、甲板に上がることができる日も。
    帰りに見学エリア内にある売店で、お土産も購入できますよ。

    また日程が合わず平日に舞鶴に来られた方も、運が良ければ、赤れんが博物館の近くで、艦艇をみることができるかもしれません。

     

     

     

    軍港としての利点を3つも有していたからこそ、舞鶴に鎮守府が置かれて一大軍港に発展していったのですね。
    近年は国際的な緊張もあり、国防への関心も高まってきています。
    ぜひ皆さんも昔と今の国防を見られる舞鶴で、その迫力をご覧ください。

     

     

     

     

     

     

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