【江戸城とは】徳川家康による徳川幕府を構成する要素について
NHKの年末ドラマで放送される予定の『家康、江戸を建てる』(著:門井慶喜)。家康が三河から、江戸の地に移ってきてからの江戸のまちづくりの奮闘を描いた作品です。
この記事では、家康の生涯と江戸幕府がなぜ260年以上も平和な世をつくることができたのか。などなど江戸幕府や江戸城の理解を深めていきましょう!
徳川家康について
徳川家康は、1542年に三河国(現在の愛知県の東側)を治めていた松平広忠の長男として生まれました。
幼名は「竹千代」(たけちよ)でした。
1548年に駿河国(現在の静岡県)を治めていた今川義元の人質になる予定でしたが、尾張国(現在の愛知県の西側)を治めていた織田家に捕らわれてしまいます。
2年後、織田家から解放され、駿河の今川義元の人質となり、今川義元につかえます。
徳川家康は、幼いころ人質として回されていたのですね。
1560年、桶狭間の戦いが起こりました。
桶狭間の戦いは、尾張の大名である織田信長が少数の軍勢で、今川義元の本陣を強襲し、勝利をおさめた戦いです。
家康は、仕えていた今川義元が亡くなったことをきっかけとして、今川家から独立することができました。
独立した家康は、1562年に織田信長と同盟を結びます。
順調に力をつけていった家康は、1568年には、かつて仕えていた今川家を、甲斐国(現在の山梨県)の大名、武田信玄と手を組み、滅ぼすことに成功しました。
順風満帆かと思われた家康ですが、1572年、三方ヶ原の戦いで武田信玄と戦い敗北します。その一年後、1573年の5月13日武田信玄は亡くなりました。
1575年、長篠の戦いで、同盟を組んだ織田信長と共に武田信玄の子、武田勝頼を破ります。
更に躍進を続け、1582年の40歳になった頃、織田信長と共に、武田勝頼を滅ぼすことに成功しました。
そのすぐあと、織田信長は本能寺の変で亡くなりました。
1584年、織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉と、小牧・長久手の戦いでなんと1年以上にわたって戦います。
その後、ついに秀吉の家来になりました。
功績を上げた家康は、1590年に秀吉の天下統一後、関東地方をもらいます。
そして1600年。
関ヶ原の戦いで石田三成を破り、事実上の天下人となり、その3年後、征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。
1615年、大阪夏の陣にて豊臣を滅亡させ、徳川幕府を確実にしました。
徳川幕府について
徳川幕府は、家康が江戸に開き、15代目の徳川慶喜が大政奉還をするまでの間、約260年にわたり日本国の政治を行いました。
家康は自身が征夷大将軍に就任した2年後に息子の秀忠に将軍職を譲り、徳川家の世襲による専制政治を世に知らしめました。
戦乱が続いていた時代、なぜ260年もの間、続くことができたのでしょうか。
そこにある大きな理由は、幕府の力が弱くならないように、さらに徳川以外のものが力を持たないように工夫したことにあります。
諸大名が財力や権力を持たないように、「武家諸法度」の制定、1年ごとに自国と江戸に住む「参勤交代」や大規模な土木工事を命じる「手伝普請(てつだいふしん)」などの軍役を確立しました。
徹底した管理のもと統治がおこなわれた江戸時代ですが、5代将軍・徳川綱吉から、雲行きは怪しくなっていきます。
年貢徴収を基本とした幕藩体制と、貨幣経済の2つが存在しており、幕府は農業中心の時代から商業中心の時代への転換にうまく対応しきれずにいました。
年貢と金銭どちらも潤わさなければならない農民たちは、たび重なる飢饉もあり、不満を爆発させ、打ち壊しや一揆が増えていきました。
こうして徳川幕府への不信感がが高まっていくなかで、ペリーが来航しました。
押し切られる形で1854年に「日米和親条約」を締結し、その後イギリス、ロシア、オランダとも同様の条約を結ぶことになりました。
こうした幕府を諸藩は、見ておられず、。日本の植民地化を防ぐために開国し、朝廷との協調運動を進めようとする薩摩藩主・島津久光を筆頭にした「公武合体派」と、弱体化した幕府を打ち倒し、干渉してくる諸外国を排除しようとする長州藩をメインとした「尊皇攘夷派」の大きくふたつに分かれ、幕末へと時代は移りかわっていきます。
江戸城について
江戸城があった地域は、平安時代末期から鎌倉時代まで江戸氏という武士が本拠地を置いていました。勢力が弱まると、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏が入ります。
1457年、扇谷上杉氏の家臣であった太田道灌(おおたどうかん)江戸城を築城しました。
さらに時代は流れ、北条早雲が入り、豊臣秀吉が天下統一のためにこの地に攻め込み、北条氏は滅びることになります。
そして江戸城も開城され、ここで徳川家康が駿府から江戸へと移されたのでした。
荒れ果てた江戸城でしたが、徳川家康は大規模な土木工事を命じる「手伝普請(てつだいふしん)」などの軍役などによって大名に江戸城の整備をすすめさせました。
徳川幕府が滅んでからは、江戸城は、皇居となっています。
明暦の大火によって焼け落ちた天守のその後
江戸城にはかつて金箔やしゃちほこで飾られた豪華絢爛な天守がありましたが、1657年に起こった明暦の大火という大火事によって焼けてしまいました。
以後、天守は造られず、いま残っているのは天守の基礎部分となる天守台のみです。
なぜ再建されなかったのでしょうか。そこには深い理由がありました。
この大災害は、江戸の人口50万人のうち、10万人以上が亡くなるという大規模なものでした。
大災害の復興を陣頭指揮されたのが会津藩主・保科正之。
保科正之は、被災者の早急な救済と大打撃を受けた城下町を復興することに力を入れました。
天守は、幕府の権威と権力の象徴でした。しかし、権力の象徴の再建のために、国の財産を費やすべきではないと判断し、天守の再建を先延ばしにしました。
すると、諸大名も幕府をはばかって天守を造るのを控えたりと、結果平和の象徴のようになったのだとか。
保科正之の決断が、その後200年の平和をと安定を生み出したのですね。
徳川家康や徳川幕府について再度おさらいしましたが、いかがでしたか。
江戸幕府への理解は深まりましたでしょうか。
徳川幕府が築いてきた260年も続いた泰平の世。それを象徴するものが、天守閣の必要ない江戸城だったのでしょうか。