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名古屋から電車1本でいける!桶狭間古戦場跡で歴史をたどる旅

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    愛知県名古屋市にある桶狭間。ここは歴史的な合戦「」の舞台です。「桶狭間の戦い」は戦国時代の風雲児、織田信長の名が全国へと知れ渡る、言わば信長のデビュー戦ともいえるものでした。戦いの背景には何があったのか?どのような戦を繰り広げたのか?知識を深め、現在も多くの史跡が残されている桶狭間で、戦いの跡をたどっていきましょう。

     

     

    織田信長VS今川義元~桶狭間の戦いとは?~

    」は1560年に駿河の戦国大名・今川義元と尾張の織田信長が戦い、信長が勝利した合戦です。

     

     

    <01_桶狭間の戦い絵図>
    歴史的にもとても有名な戦いの一つで中学校の授業でも習いますから、知っているという方、多いと思います。

     

     

    今回はもう少しだけ詳しく桶狭間の戦いについて知識を深めましょう。

     

     

    まず始めに、なぜこの戦いが起きたのか?それを知るために、合戦以前の今川家と織田家について簡単に説明したいと思います。

     

     

     

    ・今川家
    <02_今川義元>
    15世紀末、駿河国(静岡県東部)の守護大名であった今川氏親は東海地方で勢力を拡大しており、跡を継いだ息子の今川義元が遠江国(静岡県西部)にも領土を広げました。

     

     

    また義元は、近隣の甲斐国(山梨県)の武田家、相模国(神奈川県)の北条家と甲相駿三国同盟というものを結びます。

     

     

    さらには、三河国(愛知県東部)の当主・松平元康を人質にとり、三河国も手中に収めることに成功。

     

     

    今川家の領地に接する敵は尾張国(愛知県西部)の織田家のみとなっていったのです。

     

     

    ちなみに三河国の人質・松平元康は後の徳川家康。桶狭間の戦いは、若き日の織田信長と徳川家康が絡んでいるんですよ。

     

     

     

     

    <03_織田信長>
    尾張国の守護大名は、尾張国を二つに分けてそれぞれに守護代というものを置いており、その一つが清州織田氏で、家臣に織田信秀がいました。

     

     

    信秀は信長のお父さんです。守護大名の下の守護代に仕える家臣ですから、織田家の身分はあまり高くありませんでした。

     

     

    しかし、1551年に信秀が亡くなり信長が跡を継ぐと、尾張国を全て織田家のものにしようと奮闘します。

     

     

    そして8年がかりで尾張国の平定に成功しました。…その翌年、桶狭間の戦いが起こったのです。

     

     

     

    1560年・、この時今川義元は41歳。織田信長は25歳でした。
    駿河・遠江・三河と三国を治める有名大名・今川義元。尾張国を統治したばかりの新米大名・織田信長。

     

     

    その力の差は歴然で、今川軍2万5000人の兵力に対して、織田軍は5000人ほどだったとされています。この圧倒的な差がありながら、なぜ信長は勝利することができたのでしょうか?

     

     

    劣勢な中、織田信長はなぜ勝つことができたのか

     

     

     

     

     

    圧倒的な兵力差の中で信長が勝利できた秘密は、奇襲攻撃でした。

     

     

     

    1560年5月12日、今川義元が自ら引き連れて駿河を出発した今川軍は、5月17日には自陣で最も織田側に近い沓掛城(くつかけじょう)に入りました。

     

     


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    写真は、沓掛城で開催されたお祭りです。

    その翌日5月18日には、松平元康(徳川家康)を近くの大高城まで進軍させます。一方織田軍は出撃するか、清洲城で籠城するかを決めかねていました。

     

     

     

    そして運命の日がやってきます。5月19日、朝3時に松平元康(徳川家康)らが織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始しました。

     

     

    この連絡を受けて信長は飛び起き、4時には小姓衆5人のみを連れて清州城を出発。8時頃に、あとから追いついてきた部隊と熱田神宮に到着して、戦勝祈願したそうです。

     

     

    <05_熱田神宮>

     

     

     

    一方で攻撃を受けた丸根砦、鷲津砦は陥落、さらには義元率いる今川軍本隊も動き出し、織田側の砦を落としていました。

     

     

    着々と今川軍の侵攻が進んでいき、義元の機嫌はとても良かったんだとか。

     

     

    そして正午頃、信長は桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し、2000人ほどの兵で出陣します。

     

     

     

    13時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降りました。これをチャンスと取った信長は、一気に今川軍本隊に接近。義元は、桶狭間で昼食を食べて休息していました。

     
    今川軍2万5000人の兵力でしたが、実際に義元の周りには5000人ほどの兵しかいませんでした。その理由は、これまでの勝利で織田軍の軍勢は少数部隊だと思い込み、兵力を分散させていたからだと言われています。

     

     

     

    信長は雨がやむのと同時に、今川軍に奇襲攻撃を仕掛けました。大混乱となった今川軍を攻めて、織田軍はあっという間に総大将今川義元の首を討ちとったのです。義元の戦死により今川軍は戦意を喪失し、合戦は織田軍の勝利となりました。

     

     

     

     

    ではなぜ信長の奇襲攻撃は成功したのでしょうか。その要因となったのは、信長の緻密な情報管理です。

     

     

     

    清州城で出撃するか、籠城するかを決めかねていた時、すでに信長の中では出撃の意思が決定していたと言われています。

     

     

    どうして話し合いをまとめなかったのかというと、あえて口から出さないことで情報の漏洩を防いでいたのだそう。

     

     

    敵をだますにはまず味方から、というわけです。次の日の朝早く、たったの5人を引き連れて城を飛び出していったのも、軍隊を揃えることで敵に情報が流れることを懸念したんだとか。

     

     

     

    豪雨に乗じた本隊接近の前にも、軍隊の半分近くを陥落した丸根砦、鷲津砦に向かわせました。

     

     

    これは、砦の奪還を狙っていると今川軍に思わせるための陽動作戦だったのです。このように、徹底した情報戦の上で奇襲攻撃は成功したのですね。
    実際に義元の首を討ったのは、毛利新介という人物でしたが、信長が一番の功績者としたのは簗田政綱という人でした。

     

     

    <06_毛利新介>

     

     

     

    簗田政綱は、義元が桶狭間で休息しているという情報をいち早く信長に伝えた諜報部員でした。信長は「情報」というものにいかに価値があるかをすでに知っていたのですね。

     

     

     

     

    実際に桶狭間の戦い古戦場跡を旅してみよう

     

     

     

     

    愛知県名古屋市にある、名鉄線有松駅から桶狭間の戦いにゆかりあるスポットを巡る旅に出かけてみましょう!

     

     

    <08_信長坂>
    まずは有松駅から徒歩20分、「釜ヶ谷」というスポットに到着です。ここは織田軍が豪雨がやむのを待ち、今川軍への突撃のチャンスを狙って身を潜めていた場所。

     

     

     

    現在は大学の構内にある駐車場になっていますが、案内板が立っています。また近くには、織田軍が豪雨の中駆け上がったという「信長坂」と名付けられた坂道もあるので歩いてみてください。

     

     

     

    そこから5分ほど歩くと「おけはざま山」があり、ここは、今川軍本隊が休息をしていたとされる場所です。

     

     

     

    <09_おけはざま山>
    実際の山の名称ではありませんが、戦況を見渡しやすいこの小高い山に本陣を構えていたといい、今でも桶狭間の町を眺めることができます。1560年5月19日、豪雨が止むのと同時に織田軍は、先ほどの「釜ヶ谷」から一気にこの地に攻め込みました。

     

     

     

     

     

     

    つまりこの場所が桶狭間の戦いの主戦場となったわけです。本陣があったとされる場所には石碑と案内板が置かれています。
    そしてすぐ近くにある「桶狭間古戦場公園」へ。

     

     

     


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    ここが今川義元が討ちとられた最期の地です。「おけはざま山」に攻め込まれて、この辺りまで追われたということになりますね。

     

     

    今は合戦当時の地形をジオラマ化し、桶狭間の戦いを表現したものや、今川義元の墓碑、義元首洗いの泉、合戦の解説板などあり、桶狭間の戦いの代表的史跡です。園中央には織田信長と今川義元の像が立っています。

     

     

     

    最後に有松駅に帰る途中にある「七ツ塚」に寄り道していきましょう。

     

     

     

    ここは桶狭間の戦いで亡くなった戦死者たちを埋葬したとされるお墓です。

     

     

    合戦の死者は今川軍、織田軍合わせて3500人ほどいたそうで、そのための穴が7つ掘られました。

     

     

    残った最後の1つが整備され、「七ツ塚」と名付けられたのです。民家の間の細い路地を歩き、住宅地の中の狭い場所にあります。

     

     

    今でも地元の方が供養されていますが、祟りがあるといわれ、取り壊そうとした人は命を失ったそうです。歴史的合戦の戦死者たちに手を合わせにいきましょう。

     

     

     

    このように「釜ヶ谷」→「おけはざま山」→「桶狭間古戦場公園」→「七ツ塚」という順番で巡るのがオススメです。

     

     

    最後の奇襲攻撃の流れにならって歩くことで、実際の距離がどれくらいだったのか分かると思いますよ。

     

     

    地図アプリで桶狭間を俯瞰しても分かりやすいですね。今回紹介していない史跡もまだいくつかあるので、時間に余裕のある方はぜひ行ってみてください。

     

     

     

    桶狭間古戦場跡からすぐ!重伝建有松でレトロな町並みを楽しむ

     

     

     

     

    有松駅のすぐ目の前には、重要伝統的建造物群保存地区「有松のまちなみ」があります。ここは東海道の宿場町で、有松絞りという名産品で栄えた町。江戸時代の面影をひっそりと残したレトロな観光地、有松も一緒に楽しみましょう!

     

     

    <11_有松の町並み>

     

     

     

    実は、有松の起源は桶狭間の戦いと関係があります。

     

     

    江戸時代初頭、徳川家康が江戸で幕府を開いたことで、将軍のいる江戸、そして天皇がいる京都を結ぶ東海道は次第にその重要性が高まっていました。しかしながら、この辺一体は桶狭間の戦いの古戦場であったことも影響して、とても治安が悪かったのです。

     

     

    旅人が追いはぎや強盗の被害に遭うなど危険な地帯でした。

     

     

    02_arimatsu

     

     

    そこで1608年、尾張徳川家を藩主とする尾張藩は、安全を図るために住民を募り、ここに新しい集落として有松をつくりました。有松という名前になったのは荒地に松林が生い茂っていたから、という説があります。

     

     
    有松は、有松絞りとともに歩んできた商家の町。有松絞りは、全盛期には「街道一の名産品」と賞賛され、1975年に愛知県初の伝統工芸品となりました。

     

     

    <13_有松絞り>

     

     

     

     

    現在は伝統ある絞り問屋もあり、おしゃれでかわいい絞り染め商品を販売されている雑貨屋もあります。

     

     

    また、カフェやベーカリーなどのグルメもあるので、ぜひ桶狭間観光の際には、有松にも立ち寄ってみてくださいね。

     

     

    日本の伝統的建築様式を取り入れた家屋が並ぶまちなみを歩いて、江戸時代の雰囲気を感じに行きましょう。

     

     

     

    桶狭間の戦いの歴史ををたどる旅、いかがでしたか。歴史を知ってから史跡を巡れば、その面白さは格段に違うはず。この旅に出かけられたなら、華々しいデビューを飾った織田信長のその後の足取りを追うのも面白いと思います。逆に散った今川義元がどんな武将だったのか、彼の過去にも興味がわくことでしょう。二人の名将の運命を分けた桶狭間の戦いの史跡巡り。加えて有松にも立ち寄って、一日充実の歴史旅に出かけましょう!