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大阪で猛威を振るった豪商から一転 倉吉淀屋の歴史に迫る

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    「天下の台所 大阪」の土台を築いた淀屋は、江戸幕府によって全財産を没収されます。
    淀屋はもう終わりかと思われましたが、実は鳥取県倉吉市にひっそりと暖簾分けをした「倉吉淀屋」があったのでした。
    稲扱千刃(いなこきせんば)と倉吉絣(くらよしかすり)で再興するまでの、栄枯盛衰の物語をたどります。

     

     

    倉吉淀屋の成り立ち

     

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    稲扱千刃や倉吉絣を販売し、莫大な富を築いた家が「倉吉淀屋」です。
    建物は1760年創建と伝わり、倉吉最古の町屋となっています。
    倉吉淀屋は一度滅びた大阪の材木商「淀屋」が、倉吉へと移って再興したという波乱の歴史をもちます。

     

     

    倉吉淀屋のはじまりは、大阪市北浜にあった材木商「淀屋」。
    淀屋初代 淀屋常安が、1614-1615年の大坂の陣において、土木技術を活かして本陣をつくったり、戦場の後処理などを引き受けました。
    その報奨として、大坂の陣で勝利した徳川家康から「米穀の相場を立てる権利」などを得ます。
    それから常安は米市場を開いたり、中之島の開拓やインフラ整備を進めて、大坂を「天下の台所」と言わしめる土台を作り上げたのでした。

     

     

    淀屋2代目 言当は、常安が開いた米市場をさらに拡大しようと、淀屋の前を流れている土佐堀川に橋を架けました。
    これが「淀屋橋」です。
    言当の野心はとどまることを知らず、海産物市場や青物市場も開きました。
    その後3代目 箇斎、4代目 重當と順調に成長し、淀屋の富は「百万石の大名」に並ぶとも言われ、財政が苦しくなった大名に金貸しもしていました。
    そして淀屋の繁栄ぶりは、井原西鶴の「日本永代蔵」にも記されています。

     

     

    ところが1705年、5代目 広当が江戸幕府から「闕所(けっしょ)処分」を受けました。
    闕所処分とは、全財産を没収される刑罰のこと。
    刑罰の理由は、名目上「淀屋の暮らしぶりがあまりにも豪勢で、町人に不適当だから」とされていますが、実際は諸大名への貸し付けが多すぎたことが原因とされています。
    なんといまの価値で100兆円にも上る貸し付けを行っていたとも言われており、江戸幕府は淀屋がこれ以上権力を握らぬようにつぶそうとしたといえます。

     

     

    淀屋は全財産を没収され、崖っぷちに立たされたと思われましたが、実は4代目 重當は「そんなこともあろうかと」秘密裏に動いていたのです。
    重當は使用人の頭を務めていた牧田仁右衛門に、暖簾分けという形で仁右衛門の出身地「」で店を開かせました。
    それが「倉吉淀屋」なのです。

     

     

    再興を果たした倉吉淀屋の歴史

     

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    淀屋が暖簾分けをしてできた倉吉淀屋は、倉吉を代表する商家となります。

    そのきっかけとなったのが稲扱千刃でした。
    爆発的なヒット商品となった稲扱千刃を製造販売し、倉吉絣とともに売り出して、着々と発展していきます。
    倉吉淀屋の4代目 牧田五郎右衛門の頃には、もともと淀屋があった大阪の土地を買い戻すまでに至りました。

     

     

    そんな当時の繁栄を示す、2階建ての立派な町屋となっている倉吉淀屋。
    中は大部分が修復されていますが、一部当時の姿を残す柱などがあります。
    目を引くのは、28㎝もの太さがあるケヤキの大黒柱です。
    金輪継(かなわつぎ)と呼ばれる、釘を使わずにつなぐ古来からの手法で修復されています。
    住まいだけではなく、帳付けや勘定などをする帳場も残されていました。

     

     

    このような立派な屋敷を構えるほど、、そして大阪でも商売を成功させた倉吉淀屋でしたが、その終わりは突然でした。
    1859年に倉吉と大阪の店をたたんで看板を降ろしたのです。
    さらには残されていた資金すべてを「朝廷」に寄付しました。
    諸外国と通商条約を結び、いよいよ長い鎖国を終えて貿易が始まろうとしていたときに、商売の世界から身を引いた倉吉淀屋。
    一度幕府によって途絶えかけた淀屋を再興まで成し遂げた後に、静かな幕引きとした背景にはいったいどのような思惑があったのでしょうか。
    倉吉淀屋を見学しながら、倉吉淀屋の知られざる思惑に考えを巡らせてみては。

     

     

     

    倉吉淀屋の主力商品 稲扱千刃と倉吉絣

     

    倉吉淀屋の主要商品であった「稲扱千刃」や「倉吉絣」。
    この二つの商品は、どのようにして全国的な人気を博したのでしょうか。

     

     

    倉吉は打吹城の城下町であった頃より、商工業の盛んな町でした。
    その後江戸期に入って、稲扱千刃や倉吉絣といった名産品が誕生します。
    稲扱千刃は、収穫した稲穂から籾(もみ)粒をしごき取る脱穀に使う道具です。
    倉吉には鍛冶屋が多かったことから、竹で造られていた稲扱千刃を頑丈な「鉄」を使い、すこしの力で脱穀ができるように改良したと考えられています。
    1880年に、倉吉で稲扱千刃を生産する鍛冶屋に対して援助する組織「鉄耕舎」が設立されて、生産の拡大に拍車をかけました。

     

     

    一方で倉吉絣は絣の一種。
    絣とは、南アジアから伝来したと伝わる、染め分けた糸を織って模様を出した織物です。
    倉吉絣は絣の中でも、深みのある藍色の生地に、繊細な模様が織り出された織物を指します。
    また倉吉絣には高度な技術が用いられ、繊細な模様とともに丈夫な絣を生みました。
    倉吉絣の生まれた背景には、倉吉に住む女性の暮らしがありました。
    倉吉の女性は、機(はた)を習って家庭で必要な織物はほとんど自ら作っていたそうです。
    そのため非常に器用な女性が多く、織り方をアレンジしたり、模様を描いたりすることで倉吉絣ができあがったと言われています。

    やがて稲扱千刃と倉吉絣は商人によって全国で販売されて評判を呼び、倉吉淀屋はまさに「暮らしよし」の繁栄を極めるのです。

     

     

    淀屋の歴代主人が弔われる大蓮寺でインドを感じる

     

     

     

     

     

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    大蓮寺(だいれんじ)は浄土宗の仏教寺院で、淀屋の歴代主人の墓がある寺として知られています。
    起源は717年-723年に華到山麓に建てられた大蓮寺です。
    1573-1592年に近郊にあった3寺を統合して、現在の白壁土蔵群近くに建立されました。
    戦前には学校として使用されていたそうです。

    大蓮寺の見どころは、一見お寺とは思えないカラフルな本堂。
    1955年に鉄筋コンクリートで再建された本堂は、東京にある築地本願寺と同じ古代インド様式(天竺様式)で建てられています。
    中央のドーム形は「菩提樹」をかたどっており、その真ん中には「蓮の花」をモチーフにした装飾が。
    大蓮寺が古代インド様式を採用した理由は、祀られている神様にあります。
    大蓮寺に祀られているのは、ヒンドゥー教における水の女神サラスヴァティー、「弁才天(べんざいてん)」です。

     

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    香炉の下部には2匹の象がいます。
    見れば見るほど異国情緒を感じるお寺です。

    境内には淀屋歴代の墓だけではなく、武将 脇屋義助の菩提を弔って建てられたとされる五輪塔もあるので、ぜひ境内を散策してみてください。

     

     

     

     

    大阪で成功を収めたと思いきや、幕府によって全財産を失った淀屋。
    その成功を収めた商才にとどまらず、先見の目をもって倉吉淀屋を開いていたとは驚きですね。
    ぜひ一世を風靡した淀屋・倉吉淀屋の栄枯盛衰を、その目でご覧になってください。

     

     

     

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