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広島の被爆後の戦後復興の証をめぐる旅

  • 広島の街は、第二次世界大戦の終戦時には原爆の被害を受け、壊滅状態にありました。その状態から、またもとの栄えた広島に復活していくまでの物語は壮絶でした。
    復興の過程で、広島の人々はどのように生き、何を思い生きてきたのでしょうか。そんな想いを感じることができるスポットをご紹介します。

     

     

     

    日本で6番目に大きな都市広島に起こった悲劇

     

     

    広島は江戸時代から広島城を中心とし城下町として発展してきました。戦時中には日本で6番目に大きな都市として、さらには大きな港も持ち軍港としても栄えました。
    日本でも重要軍事拠点だった広島はアメリカの原爆投下都市としてターゲットにされてしまいます。

    理由を具体的に書いた記事はこちら「世界で初めて被爆した都市「広島」の遺構に触れ、めぐる旅」

    いまでも原爆に関する資料や体験は語り継がれていますが、すべて壮絶なものばかり。原爆が落とされた後は、まさに地獄絵図だったというお話を聞きます。厳しい環境下にありながらも日本は復興を遂げ、さらには世界に認められるほどまでに急成長を遂げました。

    広島の復興の軌跡は現代も広島のあちこちに残り、文化ともなっています。今回は復興の証をめぐります!

     

    原爆投下の3日後から走り始めた広島電鉄、いまも現役の被爆電車とは

     

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    まず訪れたのは広島市街地。JR広島駅を出てすぐに見える景色はビルが立ち並び、メインストリートを悠々と走る路面電車です。広島の人々にとって、市バスのような役割し、「ひろでん」と親しまれるこの「広島電鉄」ですが、実は広島の人々にとっての希望だったのです。

    1945年8月6日、原爆が広島の町を襲いました。

    その当時走っていた広電は全滅。ただ650形は651号車から655号車まである中で、奇跡的に652号車だけは小破で済みました。原爆投下3日後、己斐〜天満間の一部の区間だけではありますが、復活を果たしたのです。生き残った広電のスタッフが被曝したその日から焼け残った電車を本部にし、包帯姿で軌道、変電所などの復旧作業を進め、復興の第一歩を踏み出しました。

    運転したのは2人の女性でした。
    広島電鉄家政女学校の生徒たちです。この学校は広島電鉄が国民学校高等科を卒業した女子に乗務を目的とした教育を行うために作られました。男性たちが兵として召集され、「運転士、車掌の人手不足が深刻化対策のために女性の乗務員を養成」という目的で作られたのです。「勉強をしながら給料がもらえる」と、家庭の事情で女学校行きをあきらめていた少女たちが入学し活躍し市街地で勤務するまでになっていました。

    正直、自身も負傷しながら、死体が転がる広島の町を走行するのはとてもつらかったと感じます。それでも生き抜く。希望を光をともすという想いが感じられます。

    実はその当時走った電車が、今も現役で走っているそうです。朝の通勤ラッシュの際や、8月6日には必ず路面を現役で走行しています。過去の記憶を忘れぬように、想いを乗せて走ることで、人々に伝え続けています。

     

    戦後復興の時代に生まれた「広島風お好み焼き」の歴史をひも解く

     


    <写真10_hirosimaお好み村看板>

     

     

    広島電鉄八丁堀駅から「広島カープの歌」が流れる商店街を通り抜け、お好み村へ行きました。お好み村は1963年、新天地広場に並ぶお好み焼き屋台が1箇所に集まったビルです。

    原爆が投下されて焼け野原となった広島では、食糧難が深刻な問題でアメリカ進駐軍が小麦粉を配給しました。当時の広島に小麦粉を主食とする料理はありませんでしたが、子供に人気の駄菓子屋が出していた、水に溶いた小麦粉にネギなど乗せて焼く鉄板料理「一銭洋食(いっせんようしょく)」を発展させて、食を繋いでいました。そうして今の広島風お好み焼になったと言われています。
    広島風お好み焼の一番の特性は、生地と具材を混ぜずに焼く「重ね焼き」です。少量の小麦粉と好きな具材を入れて作れたことから「好み焼き」、そこに「お」がついて「」になったと言われています。

    さて館内に入ると、お好み焼き屋が軒を並べています。
    お好み焼き村

     

     

    今回は、「新ちゃん」でお好み焼きスペシャル(1026円)をいただきました。多様な国籍の方が、鉄板の上でなされる調理に目を向けています。

     


    <写真11_hirosimaお好み村風景>

     

     

    かなりボリュームがありましたが、最後まで非常においしくいただけます。もちもちの生地とサクサクなキャベツが絶妙に調和した食感が、ソースの甘みとともに口の中に広がります。
    このほかにも様々なメニューがありました。

     

    <写真13_hirosimaお好み村調理風景>

     

     

    広島風お好み焼き

     

    お好み村には、このほかにも新天地広場時代から続く「みっちゃん」など魅力的なお店がたくさんあります。ちなみに、「○○ちゃん」という名前が多いのにも理由があります。それは、戦争で父親や夫を亡くした多くの女性が自分の力で出店していたため、女性が自らの名前をつけるお店が多かったからとされています。

    いまでは名物となっている広島風お好み焼き。そのできた背景とともに、文化を後世に伝えていきませんか。
    所在地 :広島県広島市中区新天地5-13

     

     

    「市民球団」戦後復興の旗印たる広島東洋カープ思い出の地を訪れる

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    最期に、広島市民球場跡地を訪れました。広島市民球場は、かつて広島東洋カープの本拠地として使用されました。
    JR広島駅から広島電鉄2番線に乗り15分、原爆ドーム前駅で下車します。
    駅からはすぐそばです。これほど駅や市街地から近い球場は珍しく、市民の生活の一部としてなじんだ姿が浮かび上がります。
    球場のグラウンドは、現在は更地となっていますが、応援団が50年間声援を送った球場のライトスタンドが保存されています。
    跡地脇にある勝鯉の森には、記念碑が二つ並んでいます。

     

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    一つは、「鉄人」衣笠祥雄選手の日本記録、2215試合連続出場の記念碑です。

     

    <写真04_hirosima広島市民球場跡地衣笠選手記念碑>
    もう一つは、カープのセントラルリーグ優勝記念碑です。カープは、1950年復興の象徴を目指し設立されました。当時カープは原爆の被害を受け親会社となれる企業がなく市民のお金で経営されました。
    経営が苦しく、球場の前に酒樽を置き募金を募るという「樽募金」が行われたこともあります。
    このような歴史から、カープは2016年の優勝の際には瞬間最高視聴率が70%を超えるなど、市民に圧倒的な人気を誇ります。球場として使用されていたころの面影は薄れていましたが、グラウンドがあったことはいまだに実感できます。
    今後再開発される予定なので、広島市の風景の一部として球場があったことを実感できるのは今のうちかもしれませんね。
    復興の象徴として市民に愛されるカープ。当時の人々は、野球観戦を通して、つらい記憶をひと時でも忘れることができたのではないでしょうか。
    所在地 :広島県広島市中区基町5-25

     

    現在の広島に残る戦後復興のシンボルをテーマに、広島をめぐりました。いま私たちが当たり前人触れているものや、広島市民に愛されているもののルーツをたどると、文化となった背景を知り、想いまでも感じることができますね。
    由緒ある場所で現代に残る「広島らしさ」を味わってみてください。

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