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金森長近ゆかりの地 高山 戦国3大武将についた勝者の人生をたどる

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    岐阜県飛騨高山の有名な戦国武将はご存知ですか。金森長近は、18歳の頃から織田家に仕え、信長が本能寺の変で敗れた後、前田利家と伴に秀吉の傘下に入ります。
    秀吉が亡くなった後には、徳川家康方に。戦国の有名な3大将軍に仕える戦国時代の勝者ともいえる金森長近。そんな彼のゆかりの地を巡る旅に出かけましょう。

     

     

     

    飛騨高山 知られざる金森長近の壮絶な人生 高山城二の丸跡長近像へ

     

     
    金森長近についてご紹介します。一言でご紹介すると世渡り上手で時代を読む力が強い戦国武将といえます。
    金森長近は1524年、美濃、多治見大畑で生まれます。

     

     

    <写真01_高山城跡二の丸金森長近像>

     

     

     

    <写真02_金森長近像下の説明文>

     

     
    争いが絶えなかった美濃の国から近江野洲郡「金森」へ移住し、18歳のときに近江を離れ、尾張の織田信秀に仕えます。
    数々の活躍により、前田利家らとともに「赤母衣衆(あかほろしゅう)」と呼ばれる精鋭部隊に抜擢(ばってき)され、桶狭間の戦いにて功績を認められて信長の「長」の字を与えられ名を「長近」と改めました。
    1575年、越前の一向一揆の討伐の際には、長近もそれに伴い美濃口から進軍し平定後に、越前大野郡の3分の2を与えられます。
    明智光秀の謀反により、信長亡き後、柴田勝家と秀吉が対立し賤ヶ岳の戦いが起きます。
    その際、柴田勝家に加担して出陣しますが、前田利家らともに兵を撤収して秀吉に従う意思を示します。
    長近は秀吉に許しを請い剃髪して金森法印要仲素玄に。
    その後、小牧・長久手の戦い、富山の役、飛騨国の姉小路頼綱討伐などで功績を挙げ、1585年に飛騨一国を与えられました。

     

     

    <写真02-2_金森長近下屋敷跡(高山陣屋跡)>

     

     
    初代飛騨高山藩主である長近の下屋敷が現在、高山陣屋跡として、岐阜県高山市八軒町に置かれています。

     

     

    <写真03_金森長近菩提寺の素玄寺外観>

     

     
    現在では、剃髪後の金森法印素玄の名が広く知られており、素玄というお寺も高山にはあります。

    また、高山城は、越前大野城につぎ、長近の城で、織田信長の城づくりの工夫をよく反映さした城と言われています。
    そんな高山城跡は、JR高山駅より、東に歩く事約30分でアクセスが可能です。
    高山陣屋から宮川を渡り、「ふるい町並み」の城下町の南端の山の上にあり、途中の道は、楽しみながら散策をすることができます。

     

     

    <写真04_二の丸広場金森長近の銅像>

     

     
    高山城公園の中に、二の丸広場があり、そこに長近の銅像があります。
    勇ましく、戦後時代を生き抜いた生き様が色濃く映し出された銅像で思わず見入ってしまいます。

    1598年に、秀吉が亡くなると、五大老の実力者だった徳川家康が、天下取りに動き出します。
    世渡り上手な長近は信長以来の付き合いのある家康の方につきます。
    長近は信長・秀吉・家康と時代の支配者に順応して戦国時代の判断を見誤ることなくゴールインした勝利者と言えます。

     

     

     

    信長と秀吉の築城の工夫を取り入れた高山城 長近のこだわりとは

     

     

     
    高山城跡は、岐阜県高山市空町城山公園にある金森氏の居城跡でした。

     

     

     
    <写真04-2_高山城跡の石碑>

     

     

     

    <写真05-1_全体復元図>

     

     

     

    標高686.6メートルの城山に築城された平山城で、曲輪、堀、石垣、土塁などの遺構が残ります。
    そこにはほかの城には無い、大きな特徴が多くあり、金森長近の人間性がよくうかがえるつくりになっています。

    望楼型2重3階の御殿風天守を持つ古い城郭形式は、織田信長が築城した安土城の影響を受けたとされます。

     

     

     

    <写真09_石垣>

     

     
    本丸屋形の玄関門跡()と復元された石垣。
    ほかにも、中庭に面した二つのお風呂や城下町を見下ろす位置に飛び出した空中トイレ。
    大奥や娘用とみられる位置にある空中トイレ。

     

     

    <写真06_大手門>

     

     

     

    その真下に城へ通用門を設け、正式な大手門の上部をキッチンに。
    なんとも不思議なつくり。
    これは織田信長のそばに幼き頃から使え、秀吉のそばでそのたぐいまれな戦国の世を切り開く頭脳と斬新さを目の当たりにしてきた人物だからこそ成せる技だったのでしょう。

     

     

     

    <写真07_展望>

     

     

     
    遊び心を存分に盛り込んだ高山城は、すでに城跡となってしまっていますが、高山城跡からの眺めは非常に価値があります。
    高山の文化をつくり出してきた深く高い山々に、谷に息づくまちなみ。
    長近が楽しんだであろう、そんな景色と長近の人物が見えてくる高山城へぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
    <写真08_石垣>

    所在地 : 高山市城山町

     

     

     

    秀吉に許しを請うために剃髪 金森法印素玄へ 高山市素玄寺を巡る

     

     
    金森長近の高山での人生をたどる旅も終盤に差し掛かってきました。

     

     

    <写真10_素玄寺>

     

     

    <写真11_素玄寺の門>

     
    最後に訪れたのは長近の菩提寺として建立された素玄寺です。

     

     

    <写真12_素玄寺>

     

     

    高山城跡からは北に歩くこと約10分でアクセスが可能で、JR高山駅から東に歩く事約20分でアクセスが可能です。

    素玄寺は、1609年、初代高山城主であった長近の菩提寺として、二代目 金森可重(かなもりありしげ)が建立したものです。
    長近の法号にちなんで素玄寺となりました。
    序盤にお伝えした秀吉に許しを請うために剃髪して金森法印要仲素玄になった際の法号ですね。

     

     

    <写真13_素玄寺本堂>

     

     

    本堂は高山城二の丸にあった評議場を移築したものです。

     

     

    <写真14_素玄寺金森家墓>

     
    敷地内に飛騨郡代の大原彦四郎の墓や、金森家供養塔があります。
    また、他にも宝物がおさめられています。
    鶴毛陣羽織は、長近が豊臣秀吉からもらったものだといいます。
    軍扇、采配、吉久鎧通し、金森長近肖像などです。すべて市文化財に指定されています。

     

     

    <写真15_素玄寺の宝物>

     

     

     

     

    <写真16_素玄寺の中庭>

     

     
    また、庭園もあり、全体の構成に風流大名金森家の庭らしい様子が見られます。
    茶の湯の才もあった長近。その上品で上質な高山の武家文化を伝える庭です。

    所在地 : 〒506-0832 岐阜県高山市天性寺町39

     

     
    飛騨の戦国武将、金森長近ゆかりの地をめぐる歴史旅はいかがでしたか。
    知名度としては低い方ですが、三大戦国武将に仕えただけでなく、なんと千利休の門人でもあった金森長近。
    あまり知られていないからこそ、戦国武将を巡る旅にはもってこいの人物です。ぜひ高山や越前にも足を運んでみてはいかがでしょうか。