古代日本を守ってきた九州要の史跡を巡り人々の変わらない心に触れる
福岡県太宰府市は古代日本において大陸との外交拠点かつ九州統治の要所でありました。
そのため外敵に対する防御として様々な工夫が凝らされました。
864年白村江の戦い以降どのように守備が固められたのか、その跡地を巡る旅に出かけます。
この記事の目次
百済式の巨大土塁 大宰府の内と外を分けた出会いと別れの水城跡
西鉄「都府楼前」(とふろう)駅から徒歩約20分、県道沿いに大きな丘のようなものが見えてきました。
ここが水城跡(みずきあと)、天智天皇の代に造られた全長約1.2㎞、高さ約13mの土塁です。
まずは水城館にお邪魔しました。
この水城館の中では太宰府市の史跡に関する動画やパンフレットを見ることが出来るほか、休憩スポットにもなっています。
864年白村江の戦いで唐・新羅(しらぎ)に敗北した日本軍は、福岡平野の平地が最も狭いこの場所に百済(くだら)式工法で水城を建設しました。
水城館は水城東門跡に設置されています。
この東門は大宰府の関門の役割も果たしており、そこから先は博多湾へと続く官道でした。
大宰府の内外を隔てる東門は出会いと別れの場でした。
大宰府の長官としてこの地に赴任してきた大伴旅人と児島という女性の離別は万葉集にも登場し、その情景に思いをはせることができます。
展望台は太宰府市のビュースポットにもなっています。
全て人の手で造られた巨大な姿に人間の力を感じませんか?
水城館 所在地 : 福岡県太宰府市国分2-17-10
https://www.kotodazaifu.net/mizukikan
山全体がお城!? 日本最古の山城大野城跡から大宰府のまちを眺める
西鉄太宰府駅から車で約20分、山の中へと入っていきます。
唐・新羅の攻撃をおそれ、水城建設後に大宰府の北の守りとして記録上では日本最古の山城・大野城が築かれました。
大野山、現在の四王寺山の尾根に全長約8㎞の土塁をめぐらしたその内部全てが城内という巨大な山城です。
土塁の上からは太宰府のまちがよく見え、その広さに息をのみます。
土塁の内側には籠城(ろうじょう)のための倉庫跡である礎石群が整然と並んでいました。
幸いにも大野城は一度も使用されることなく、その後は鎮護国家の影響のもと四天王寺が建てられ仏教の山として栄えることとなりました。
江戸時代には石仏三十三ヶ所が設立され、参拝客が絶えることがなかったといいます。
形を変えながらも太宰府のまち、日本の国を守り続けてきた大野山の力の一端に触れることが出来ました。
大野城跡から車で約5分ほど下ると岩屋城跡があります。
こちらは戦国時代、大友氏が築いたもので島津藩との死闘の末落城しました。
本丸跡には石碑が立っており、ここからは水城跡を一望することができます。
こちらにも足をのばしてみると、この山の地理的、戦略的重要性をより実感できるのではないでしょうか。
所在地 : 大野城跡 福岡県糟屋郡宇美町四王寺、大野城市乙金、太宰府市太宰府ほか
http://www.dazaifu.org/map/tanbo/tourismmap/17.html
岩屋城跡 福岡県太宰府市観世音寺字大浦谷
大宰府政庁の官僚制を支えていた頭脳育成の場「学校院跡」を訪ねる
観光バスまほろば号を「観世音寺」で下車し約5分ほど歩くと、広々とした畑が現れました。
現在は畑の中に石碑が立っているだけですが、小字名が「学業」とされることから学校院があったと考えられています。
九州国司の子弟を対象とした官吏養成教育が目的であり、政治・医術・算術といった役人に必須の事柄を学んでいたとされます。
また、遣唐使が持ち帰った孔子肖像画が安置されていたとされ、そのことからも大陸文化需要の最先端であったことが伺えるのではないでしょうか。
学校院跡の裏には山上憶良の歌碑がありました。
彼が筑前国守であった頃に、子どもたちを思い出すと詠んだ歌です。
山上憶良をはじめ万葉時代には多様な立場の人々がこの地で歌を詠み、故郷に思いをはせていました。
防人(さきもり)として学者として様々な形で大陸と相対し、家族を守るため大宰府の地にやってきたのでしょう。
時代を超えても変わらない人の思いがあるのだなぁと温かい気持ちになりました。
学校院跡 所在地 : 太宰府市観世音寺4-208-4
大宰府のまちを守ってきた史跡を巡っていると、そこに関わった人々の思いに触れていくことになりました。
1000年以上も前の日本に生きた人たちと同じようにわたしも日本という国を守っていきたい、そんな風に感じた旅でした。
日本を守った人々の足跡を追ってみませんか?