日本史史上最大の悲劇の人物 鞍馬天狗に育てられた武芸の達人源義経
歴史上最も悲劇的な人生を過ごした戦国武将といえば、きっと源義経(みなもとのよしつね)でしょう。
幼少期での父の死、実の兄の裏切り。そしてやっとできた家族を自分の手で殺害せねばならなかったこと。
彼の壮絶な人生を彼を育てた京都、鞍馬の地に残る史跡や鞍馬天狗伝説ともに辿って見ましょう。
この記事の目次
牛若丸と大天狗 義経は鞍馬天狗に育てられたことで強く育った!?
叡山電鉄鞍馬駅で降りると、目の前に大きな天狗の顔があります。
こここそが天狗伝説の発祥地、鞍馬であります。 鞍馬天狗伝説に際し欠かせない歴史上の人物がいます。それが源義経です。
八百年余り前、義経こと牛若丸がまだ遮那王(しゃなおう)と名乗っていた頃の七歳から十年間、昼は学問、夜は武芸に励んでいた地が鞍馬であるといわれています。
平治の乱で父である源義朝(みなもとのよしつね)が謀反人となり敗死し、鞍馬寺に預けられた義経はある日、東谷の僧とともに西谷の花見の招きを受けて連れられるも、
見知らぬ山伏(やまぶし)が来たのに気を悪くし、義経を置いて帰ってしまいます。
ただ1人取り残された義経の素性を知り憐れんだ山伏は花の名所へと義経を案内しました。
そして自分の正体は大天狗であると明かし、平家討伐を達せられるよう兵法の秘伝を授けます。
義経が11歳の時のことだったといわれています。
厳しい修行に耐え抜いた義経に兵法を授けた大天狗は再会を約束し立ち去ったといいます。
鞍馬駅内には鞍馬の伝承や文化などの写真や絵が数多く展示されています。
その中には義経と大天狗の伝承を伝える絵巻物が多数展示されています。
1人残された義経にとって案内し、そして強く育ててくれた天狗は血の繋がりを超えてかけがえのない人だったのでしょう。
だからこそ厳しい越えられたのだと感じました。
強い愛を持つ男、義経のそのルーツをたどってみてはいかがでしょうか。
所在地:鞍馬駅 京都府京都市左京区 鞍馬本町191
義経を強くしたのは鞍馬の地!?故郷鞍馬を発ちいざ波乱万丈の人生へ
義経が修業の際に使っていたといわれるのがこの木の根道です。
鞍馬の硬い地質のため杉の根が地中に入らず地表を張っているこの地域独特の景観です。
幼少期の義経はこの地で修業をし、かの壇ノ浦の戦いにおける””八艘飛び””伝説の由来となっています。
実際に中高陸上部の部長であった筆者が走るも、非常に骨が折れました。そして尚且つ義経は鎧などをその身に纏っての跳躍です。その脚力はやはり底知れません。
尚、この地には十年あまり大天狗とともに修業をした義経が奥州藤原秀衡の許に下る際に、名残を惜しんで背を比べ記した””背くらべ石””
や、修業の際に水を飲みのどを潤したといわれる”息継ぎの水”などがあります。
奥羽藤原氏の許へ下ったその時こそが、波乱に生きた男源義経の人生の幕開けであったといえます。
所在地 : 木の根道・背くらべ石 〒601-1111 京都府京都市左京区鞍馬本町
所在地 : 息継ぎの水 〒601-1111 京都府京都市左京区鞍馬本町1074
実の兄の裏切り 鞍馬天狗に育てられ人に尽くした男の半生の最期
奥州藤原氏の庇護を受けた義経は、兄である頼朝が治商・寿永の乱(1180年)で平氏打倒を掲げるとそれに馳せ参じ、
大天狗から授かった斬新な兵法で平家の裏を衝きます。
一の谷(1184年)、屋島(1184年)、壇ノ浦(1185年)と快勝を上げ平氏打倒の最大の功労者であったといわれています。
ところが””吾妻鏡””(あづまかがみ)によれば、戦の功労から官位を受けたり、独断で平氏との戦いにおける判断を下したりした義経の力を疎ましく思った兄である頼朝の手により朝敵として全国に帆なくの銘を出されてしまいます。
その後藤原氏を再度頼るも追及を逃れきることも出来ず、現在の岩手県平泉の屋敷を兵に囲まれました。
義経は一切戦うことをせず、正妻と4歳の実の娘を殺害した後、自ら命を絶ったといわれています。
鞍馬山には義経の御霊の居場所とし奉る””義経堂””や、
義経を偲んで建てられた””義経公供養塔””など数多くの史跡などが残されています。
義経を育て上げた鞍馬というこの地を今も義経はその思い出とともに駆け抜けているのでしょうか。
所在地 : 義経堂・義経供養堂 京都府京都市左京区鞍馬山道中
幼き頃にたった一人で鞍馬寺に預けられ、大天狗に育てられた義経。平氏打倒の念に駆られながらも一心不乱に兵法を学ぶも、
実の兄の手によりその悲願も阻まれてしまいます。
最後にはやっとできた家族を自分の手で殺すことになります。
彼の生きた跡をたどり、感傷におぼれる旅に出てみてはどうでしょうか。