五箇山は宗教から始まった?美しい合掌造りの裏側にある信仰の歴史
富山県は南砺市(なんとし)にある世界遺産五箇山(ごかやま)の魅力は、合掌造り家屋だけではないんです。
集落内にあるお寺や神社、独特な形をした自然物たちは、人々が生きてきた歴史を語ってくれます。合掌造りから少し離れてみると、古き良き日本を今に伝える五箇山の姿が見えてきます。
五箇山と宗教の密接なつながりの歴史とは?
この記事では美しい五箇山の景色の裏側を信仰という観点で追っていきましょう。
【五箇山のある集落のはじまりも宗教だった?】
五箇山の最高峰である人形山(1726m)は奈良時代の僧、霊峰白山を開山したと伝えられる泰澄によって開かれたと伝えられています。白山信仰の修験の場として多くの信仰を集めました。その頃、山岳修験者の行場として小さな村落が開かれたとされます。
【五箇山と浄土真宗】
鎌倉時代頃になると、8代目蓮如上人の時代に浄土真宗が広まり、浄土真宗の布教の拠点として門徒が寺や念仏道場を設け、宗教色の強い集落が形成されます。戦国時代、織田信長と張り合うほどの勢力を有していた浄土真宗。五箇山で宗教が広まったことで更に時代の波に翻弄されていきます。
1570年、現在の大阪城がある場所で起きた石山合戦が起きました。浄土真宗本願寺派は信長の天下統一の野望にあらがい、鉄砲3,000梃で信長を激しく攻撃します。その戦の際に使用された弾薬は、真宗信仰の篤い五箇山でつくられた火薬の原料である塩硝だったとされます。
こうして宗教と密接に関わりを持ち発展していった五箇山ですが、その後も宗教の発展は続きます。
五箇山では、8代目蓮如上人の時代に浄土真宗が広まりましたが、その大きな特徴は、西本願寺派と東本願寺派のどちらも存在していることでした。
【西本願寺と東本願寺の違い】
正式な宗派名は、西本願寺は浄土真宗本願寺派、東本願寺は真宗大谷派といいます。そもそも浄土真宗の宗派が分裂したのは、1600年関ヶ原の戦いの頃でした。
戦国時代に、織田信長と石山合戦で一向宗(本願寺派)の本山である石山本願寺が、武装解除に応じたことで、一向宗は石山本願寺から追われます。
織田信長から豊臣秀吉の時代になり、本願寺派は京都の烏丸で本願寺の再興を許されます。京都で有名な西本願寺ですが、豊臣秀吉が再興したものです。そのため桃山文化が至る所に施され、豪華絢爛な印象を受けます。
その後、家康の宗教政策によって、当時、本願寺内で分裂状態が起きていたことを利用し、教如を門主とし、西本願寺のすぐ東の土地を与えられ東本願寺を分立したのが真宗大谷派の始まりです。
家康は、当時信長がどの大名よりも本願寺に手を焼いた事を踏まえ、「勢力を分断する為に東西に分けた」と考えられます。
分断してからは、作法や声明、仏具や荘厳はそれぞれ違う流れになりました。
【五箇山での宗派分断】
相倉では話し合いで宗派を分けることになりました。
とはいえ、宗派が分かれても浄土真宗を信仰する気持ちは皆同じでした。
東本願寺派が、道場(どうじょう)という仏事を行う場所としてこの「相念寺」を建てることにした際に、宗派や年齢に関係なく、集落中の住民がお金を出し合ったそうです。
集落中の住民がお金を出し合ったお礼として、東本願寺派の有力者が持っていた部屋を、西本願寺派の有力者宅の横に移設しました。それが「西方道場(にしかたどうじょう)」だそうです。さっそく二つのお寺を訪れてみましょう。
五箇山と浄土真宗 東と西、双方の宗派が残っている信仰の謎に迫る
【東本願寺派 相念寺を訪れる】
JR城端線に乗り、城端駅でバスに乗り換え約25分。岐阜県の白川郷と共に世界遺産に登録された五箇山の相倉合掌造り集落に到着しました。
集落の北に東本願寺派の相念寺(そうねんじ)。集落のほぼ中央に西本願寺派の西方道場があります。
はじめに相念寺に訪れました。まずはじめに驚いたのは、その外観!普通のお寺を想像していたのですが、五箇山のような雪国ではもちろんお寺も合掌造りでした。
茅葺屋根のその外観は、集落に溶け込んでいました。
【東本願寺派 西方道場を訪れる】
続いて西方道場を訪れました。相念寺とは集落の中央を縦断する城端往来を境に約100mほどの距離で対になっています。相念寺が南向きなのに対し西方道場の御堂は北向きで少し規模が小さくなっています。
相念寺と同様に茅葺屋根の小さな道場でした。村の人が大切に守ってきた道場は、昔は公民館のような役割も担っていたそうです。
【浄土真宗の宗祖、親鸞聖人をしのぶ「報恩講」】
秋には「ホンコサマ」と呼ばれる、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人をしのんで催される仏事「報恩講」が行われます。
東本願寺では11月28日、西本願寺では旧暦に計算した1月16日を親鸞聖人の命日とし、親鸞聖人の恩に報います。信徒の方は寺院か一般家庭の仏壇の前で、僧侶の唱える親鸞聖人の教えを説いた経である正信偈に耳を傾けるそうです。
その際に親戚や近所の人々が集まり、お坊さんの読経を聞いたあと精進料理を食べ、一年の無事を喜びあいます。収穫祭でもあり、それぞれの家でとれた新米や野菜、山菜を使い朱塗りの御膳に用意するのだとか。
小さな集落内に双方の宗派の道場が建ったのは、同じ宗教を信じる人々の思いやりの結果だったのです。五箇山の人々の優しさは、このころからずっと受け継がれ来たものなのだなと感じました。
神仏習合の名残 五箇山の「まつりごと」を支える地主神社と神明社
浄土真宗が色濃い五箇山ですが、それだけではありません。
相倉集落には土地の神様を祀る地主神社(じぬしじんじゃ)。
菅沼集落には神明社(じんめいしゃ)と呼ばれる神社があります。
神社は本殿だけでなく、こうした狛犬や石鳥居、石灯籠なども含めて、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
背の高い木に囲まれた空間は、神聖さも感じられました。
こうした神社は、政治と祭事という「まつりごと」を行う場になっていました。今でも年に最低2回は参拝して集落の安全と農作物の実りに感謝し、春には祭りを行って獅子舞を奉納するそうです。
宗教色の強い五箇山の各集落ですが、各家は浄土真宗の門徒であり、集落には寺もあります。ちなみに家の中では、神棚と仏壇が隣に置いてあるそうですよ。
お寺も神社も大切にされている様子は、昔の日本でみられた神仏習合の名残のようにも感じられました。
神社は、集落を見守るお宮さんとして、今も人々に親しまれています。
どちらもどこか落ち着く空気が流れていて、地域との結びつきが強いからこそなのかなと感じました。
信仰の観点から文化がどのように浸透し、集落を形成してきたのか追ってきました。合掌造りの集落の絶景に目がいきがちですが、その裏側には多くの魅力が詰まっています。家屋を楽しむだけでなくどのような文化が発展してきたのか、ぜひ紐解く歴史旅もお楽しみください。